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2021年8月9日月曜日

符丁となったスポーツ~東京五輪

 男子マラソンの表彰台に立つ金メダリスト、エリウド・キプチョゲの瞳をテレビの画面に見たとき、はじめて僕の仕事の手が止まった。僕はスポーツに興味がないから、彼の今までを知らない。どんな成績を残してきた人かも知らない。もちろん(この記事を書こうと思うまで)名前も知らなかった。が、これは深い思索を重ねてきた人の目だ、と直感的に思った。なにか宗教的な威厳をたたえた瞳のように感じ、そして静かに胸を打たれた。

 彼の眼は、東京オリンピック大会の開閉会式を通して唯一、僕が心動かされたものだった。そして以下の記事を読むに、僕の直感は間違っていなかったようである。

 キプチョゲは、たとえば「生きていくうえで、己に打ち勝てる者だけが自由になれる。もし自己抑制ができないなら、気分や情熱の奴隷になってしまう」とか「木を植えるのに最適な時は25年前だった。2番目に最適な時は今日だ」といったことを話すタイプだ。(Scott Cacciola)©2018 The New York Times/朝日新聞GLOBE+ 2018年11月5日付

 コロナ禍における大会の是非、膨大に膨れ上がった予算、開閉会式にまつわる組織委員会の様々な不祥事、それらのことはすでに多くの論が割かれている。今さら繰り返す気にもなれない。我が国がクリエイターの創作物に敬意を払わない国であることは、「文春砲」に教えられるまでもなく、生身で経験している。今さら驚きもしない。

 ともかく、ひとつの収穫が終わった。スポーツ界にとって「木を植えるのに最適」な「25年前」が始まるが、基礎研究にもカネを出し惜しみする我が国で、自国開催の五輪に向けて取り繕われてきた各種スポーツ競技への支援は、このまま継続しゆくものだろうか。相対的に下がるのが自然ではないかと思う。「感動をありがとう」と言ったその口で、今後は選手育成の予算に触れるわけだが、この昨今である。先行きは厳しいものとなるだろう。

 我が国において、スポーツは感動を意味する「符丁」となっている。そしてスポーツ選手には、他国選手を叩きのめして我が国の栄光を示し観客を感動させるという「符丁」としての振る舞いを社会に要求される。いや、直接の要求はないかもしれない。が、忖度しなければならないものとして、それはある。選手たちは「感動を与えたい」という言葉で「符丁」になることへの宣誓をする。自国開催なら猶更のことだ。ゆえに、少しでも「符丁」としての役割を外れるような行動をしようものなら…なでしこジャパンの片膝つき、大坂なおみのBLMへの支持、女性である場合は特に…容赦なくバッシングの対象にもなる。

 自分が好きだから、とか、ほしいから、とかいうのではなく、世間体と見栄だけで環境をつくる。生活自体が、おのれ自身の生きた現実を土台にしていないのです。この惰性的な、実質を抜いた約束ごと、符丁だけで安心している雰囲気は封建日本の絶望的な形式主義です。(『今日の芸術』岡本太郎・1954年/1999年 光文社文庫)

 イマジン、ボレロ、上を向いて歩こう、月の光。思うに、開閉会式の演出も、何から何まで「符丁」のつなぎ合わせである。岐阜のホテルの一室で海老蔵の『暫』を見たが、僕は「日本を代表する演劇」の「いちばんポピュラーな演目」を「日本を代表するジャズピアニスト」と「異種コラボ」する以上の意味をそこに見いだせなかった。成田屋の睨みには無病息災のご利益が、という人もいたが、それが目的ならば、式の終わり間際で、上原ひろみと併せるという演出にはなるまい。

 国歌を歌うMisiaも「多様性」の「符丁」、最終ランナーの大坂なおみも、糸井重里の言う通り「いろんな国の要素が混じってる」ことの「符丁」、そもそもこの大会が、「復興五輪」だの「コロナに打ち勝った証」だのと名目は変わったものの、つまり石原慎太郎の言っていたように、国威発揚の「符丁」そのものではなかったか。

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 体を動かすこと自体が好きではなかった僕も、人に勧められたこともあり、健康のためにピラティスをはじめた。おとなしそうな運動に見えて、およそ運動らしいことをしてこなかった僕にはなかなかハードである。が、呼吸に集中して体を観察しながら動かしていくとき、なんとなくではあるが、自分のなかに何かしらの空白が生まれるのを確かめることがある。それは、僕が作曲に集中しているとき、あれをしようこれをしようという意図をふっと離れて音符を埋めている時間と少し似ていて、楽しい。いかに今まで、忍耐や根性や優劣の競争といった学校教育の「体育」に毒されていたのかを発見する機会にもなっている。

 もちろん僕のささやかな運動と比べようというのではないが、己の身体そのものに向き合い続けて4年間を過ごす選手たちの想像はできる。その営みは、およそ芸術と同じく、行きつくところは無目的に違いない。下方限定進行音を保留させ装飾を施しつつ下に下げる、という作曲家の営みと、競技選手たちの腿の筋肉の上げ下ろしは、その無目的性において、それほど変わらないはずだ。

 なにか心に邪なものがあるとき、得てして、舞台の上では失敗するのを我々音楽家も経験として知っている。良い演奏をしたときは、30分を5分ぐらいに感じたりするものだ。自分がひとつの無となって音楽がひたすら通り過ぎていく。あれをしようこれをしようという意図がどこかにふっと消えるとき、音楽はもっとも抽象的になり、聴衆は逆に具体的なメッセージを汲み取る。それが音楽の感動というものだが、スポーツもまた、文化の名に値するものならば、そういう瞬間を味わうもののはずだ。ただ走りたい、ただ跳びたいという混じりけのない欲求がなければ、自分を高めていくことなどできまい。

 そうした純粋な欲求をそのままの形では理解できない人々が、苦労話の再現ドラマを添えて「感動」する。そうした「符丁」としての役割を、嬉々としてか渋々とかは人それぞれだと思うが、演じなければならないことの不幸を思う。が、そこで起きていることそのものはとても他人事とは思えない。我々音楽の世界だって、長らく、苦悩から歓喜に至るなどというデコレーションを施された「感動」によって消費され続けているのだから。

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 キプチョゲの瞳からしばらく目が離せなかったのは、何の「符丁」でもない人間を久しぶりに見たような気がしたからかもしれない。ただただ静かに思索を重ねる人の眼に、「気分や情熱の奴隷」となった我が国の狂騒は、果たしてどう映ったのだろうか。