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【告知】西澤健一 協奏曲作品の夕べ

昨年のオペラ『卍』管弦楽版初演に続き、新たな挑戦をします。 コロナ禍とウクライナ侵攻の影響を受けた協奏曲作品群。これらを紹介するにあたり、世界的な名匠たちの力を借りることができることを、喜びとともに報告するとともに、ぜひとも皆様にもご覧いただきたくご案内申し上げます。 * * *...

2021年8月13日金曜日

新作紹介 24の前奏曲

夏休みの自由研究に、ピアノのための24の前奏曲を書きました。

課題としましては、(1)もちろん24調すべて使うこと。24調を廻る手段は半音でも5度でもなく、3度です。そのアイデア自体はリスト『超絶技巧練習曲』と似ていますけど、配置は異なります。内表紙にはコンセプトを説明するトンネッツ図を付しておきました。(2)全曲見開きに収めること。要するに2ページ以上の曲は書かないこと。(3)音域を限定すること。早い話、ヘ音記号を使わないこと。以上3点です。

10年ほどピアノのソロ作品からは遠ざかっていたのですが、某氏から「西澤さんにとって調性とは何かということを書いてほしい」というご意見があって、なるほどその手があったかと思い、アイデアが降りてきました。本当は「24の前奏曲とフーガ」を所望されたんですけど、フーガまで含めるとオペラどころじゃなくなっちゃうから、前奏曲だけでごめんね。

以下のサイトに公開しておりますので、よろしくお願いします。

Piascore https://store.piascore.com/scores/112148

Score Exchange https://www.scoreexchange.com/scores/557583.html

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僕がなるほどと思った「その手」について、少々補足を。

「調性とは何か」という問いは受け取りようによっては少々意味が限定されてしまうので、「どのように中心音を説明するか」という問いと言い換えましょう。音楽の歴史においては、様々な音程が「中心音を説明」するための道具として検討されてきました。声楽が中心の中世の頃は上下2度で説明していたものが、器楽が発達したルネサンスの頃からは上下5度になっていきます。下の5度=サブドミナントが「一種の発想の飛躍」であったとは、以前書いた通りです。これがいわゆる機能和声となって古典・ロマン派の基をつくり、今度は上下3度の扱いが検討されていきます

その古典・ロマン派において、「一種の発想の飛躍」の役割を果たした音程は、増5度。つまり増三和音でしょう。その扱いはモーツァルトからウェーベルンに至るまで共通した特徴が見出されます。が、終戦を境に状況が変わる。ポスト・ウェーベルン世代となると、とたんに3度の影響が薄くなっていく。代わりに扱われ始めたのは7度、そして増4度です(…となると、3度ではなく5度を扱ってそこに至ったバルトークの特殊性を思うのですが。)

ルネサンスからバロックが第3倍音に習熟する過程とすれば、バロックから古典・ロマン派は第5倍音に習熟する過程と言える。その次の世代として、第7倍音や第11倍音…つまり、7度や増4度が検討の対象になっていくのは自然な流れでしょうし、その文脈でスペクトル楽派のような試みも当然のことと理解できます。もっとも、古典・ロマン派の3度のように、7度もまた長短問わず検討されるべきでしょう。現代音楽はもちろんのこと、ポピュラー音楽の世界でも、いわゆるメジャーセブンスのコードのような形で生のままの7度が扱われ始めるのは同時代的な出来事と思います。

僕は野良の作曲家なので、どなたか、こういう論文を僕の代わりに書いてください。

以上、バッハが2度間隔の配置で5度を表現し、ショパンが5度間隔の配置で3度を表現したのなら、3度間隔の配置で7度を表現する曲集があっても良いじゃないか、というのが、僕の思った「その手」であります。

古き良き時代やら、19世紀的なものへの憧憬やら、僕は縁のない者であり。しかし同時に、戦後のあらゆる前衛技法も(若い頃は夢中になって聴きましたけど、しかしながら)僕にとっては19世紀以前の音楽と等しく過去の出来事で。付け加えれば、符丁化された「感動」など眼中にあるわけなく。ただ単に、素材を把握しやすい形にするという一点の目的のために、僕は作曲家としていわゆる「調性音楽」を扱うようになったのですが、今回の曲集は、そうした僕の立場をもっとも良く表したものになったかもしれない、と思っております。

全曲弾くと35分くらいです。ピアノ弾きの皆さんの挑戦をお待ちしております。

2021年8月9日月曜日

符丁となったスポーツ~東京五輪

 男子マラソンの表彰台に立つ金メダリスト、エリウド・キプチョゲの瞳をテレビの画面に見たとき、はじめて僕の仕事の手が止まった。僕はスポーツに興味がないから、彼の今までを知らない。どんな成績を残してきた人かも知らない。もちろん(この記事を書こうと思うまで)名前も知らなかった。が、これは深い思索を重ねてきた人の目だ、と直感的に思った。なにか宗教的な威厳をたたえた瞳のように感じ、そして静かに胸を打たれた。

 彼の眼は、東京オリンピック大会の開閉会式を通して唯一、僕が心動かされたものだった。そして以下の記事を読むに、僕の直感は間違っていなかったようである。

 キプチョゲは、たとえば「生きていくうえで、己に打ち勝てる者だけが自由になれる。もし自己抑制ができないなら、気分や情熱の奴隷になってしまう」とか「木を植えるのに最適な時は25年前だった。2番目に最適な時は今日だ」といったことを話すタイプだ。(Scott Cacciola)©2018 The New York Times/朝日新聞GLOBE+ 2018年11月5日付

 コロナ禍における大会の是非、膨大に膨れ上がった予算、開閉会式にまつわる組織委員会の様々な不祥事、それらのことはすでに多くの論が割かれている。今さら繰り返す気にもなれない。我が国がクリエイターの創作物に敬意を払わない国であることは、「文春砲」に教えられるまでもなく、生身で経験している。今さら驚きもしない。

 ともかく、ひとつの収穫が終わった。スポーツ界にとって「木を植えるのに最適」な「25年前」が始まるが、基礎研究にもカネを出し惜しみする我が国で、自国開催の五輪に向けて取り繕われてきた各種スポーツ競技への支援は、このまま継続しゆくものだろうか。相対的に下がるのが自然ではないかと思う。「感動をありがとう」と言ったその口で、今後は選手育成の予算に触れるわけだが、この昨今である。先行きは厳しいものとなるだろう。

 我が国において、スポーツは感動を意味する「符丁」となっている。そしてスポーツ選手には、他国選手を叩きのめして我が国の栄光を示し観客を感動させるという「符丁」としての振る舞いを社会に要求される。いや、直接の要求はないかもしれない。が、忖度しなければならないものとして、それはある。選手たちは「感動を与えたい」という言葉で「符丁」になることへの宣誓をする。自国開催なら猶更のことだ。ゆえに、少しでも「符丁」としての役割を外れるような行動をしようものなら…なでしこジャパンの片膝つき、大坂なおみのBLMへの支持、女性である場合は特に…容赦なくバッシングの対象にもなる。

 自分が好きだから、とか、ほしいから、とかいうのではなく、世間体と見栄だけで環境をつくる。生活自体が、おのれ自身の生きた現実を土台にしていないのです。この惰性的な、実質を抜いた約束ごと、符丁だけで安心している雰囲気は封建日本の絶望的な形式主義です。(『今日の芸術』岡本太郎・1954年/1999年 光文社文庫)

 イマジン、ボレロ、上を向いて歩こう、月の光。思うに、開閉会式の演出も、何から何まで「符丁」のつなぎ合わせである。岐阜のホテルの一室で海老蔵の『暫』を見たが、僕は「日本を代表する演劇」の「いちばんポピュラーな演目」を「日本を代表するジャズピアニスト」と「異種コラボ」する以上の意味をそこに見いだせなかった。成田屋の睨みには無病息災のご利益が、という人もいたが、それが目的ならば、式の終わり間際で、上原ひろみと併せるという演出にはなるまい。

 国歌を歌うMisiaも「多様性」の「符丁」、最終ランナーの大坂なおみも、糸井重里の言う通り「いろんな国の要素が混じってる」ことの「符丁」、そもそもこの大会が、「復興五輪」だの「コロナに打ち勝った証」だのと名目は変わったものの、つまり石原慎太郎の言っていたように、国威発揚の「符丁」そのものではなかったか。

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 体を動かすこと自体が好きではなかった僕も、人に勧められたこともあり、健康のためにピラティスをはじめた。おとなしそうな運動に見えて、およそ運動らしいことをしてこなかった僕にはなかなかハードである。が、呼吸に集中して体を観察しながら動かしていくとき、なんとなくではあるが、自分のなかに何かしらの空白が生まれるのを確かめることがある。それは、僕が作曲に集中しているとき、あれをしようこれをしようという意図をふっと離れて音符を埋めている時間と少し似ていて、楽しい。いかに今まで、忍耐や根性や優劣の競争といった学校教育の「体育」に毒されていたのかを発見する機会にもなっている。

 もちろん僕のささやかな運動と比べようというのではないが、己の身体そのものに向き合い続けて4年間を過ごす選手たちの想像はできる。その営みは、およそ芸術と同じく、行きつくところは無目的に違いない。下方限定進行音を保留させ装飾を施しつつ下に下げる、という作曲家の営みと、競技選手たちの腿の筋肉の上げ下ろしは、その無目的性において、それほど変わらないはずだ。

 なにか心に邪なものがあるとき、得てして、舞台の上では失敗するのを我々音楽家も経験として知っている。良い演奏をしたときは、30分を5分ぐらいに感じたりするものだ。自分がひとつの無となって音楽がひたすら通り過ぎていく。あれをしようこれをしようという意図がどこかにふっと消えるとき、音楽はもっとも抽象的になり、聴衆は逆に具体的なメッセージを汲み取る。それが音楽の感動というものだが、スポーツもまた、文化の名に値するものならば、そういう瞬間を味わうもののはずだ。ただ走りたい、ただ跳びたいという混じりけのない欲求がなければ、自分を高めていくことなどできまい。

 そうした純粋な欲求をそのままの形では理解できない人々が、苦労話の再現ドラマを添えて「感動」する。そうした「符丁」としての役割を、嬉々としてか渋々とかは人それぞれだと思うが、演じなければならないことの不幸を思う。が、そこで起きていることそのものはとても他人事とは思えない。我々音楽の世界だって、長らく、苦悩から歓喜に至るなどというデコレーションを施された「感動」によって消費され続けているのだから。

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 キプチョゲの瞳からしばらく目が離せなかったのは、何の「符丁」でもない人間を久しぶりに見たような気がしたからかもしれない。ただただ静かに思索を重ねる人の眼に、「気分や情熱の奴隷」となった我が国の狂騒は、果たしてどう映ったのだろうか。

2021年8月4日水曜日

【告知】オペラ『卍』管弦楽版初演 12月8日めぐろパーシモンホール



人を愛することの尊さと愚かしさ、

忠実であり続けることの厳しさと美しさ…

日本発・美しき 谷崎オペラ

2017年に初演され好評を博した室内オペラ「卍」がフル・オーケストラ版になって、2021年12月8日、帰ってきます。人と人との距離が社会的にも肉体的にも離されていくコロナ禍の時代にお届けする、「密」な人間の物語。三浦安浩による新演出です。このオペラの船出を見届けてくださった皆様も、今回が初めてという皆様も、装い新たに生まれ変わった「卍」の世界を、ぜひご覧ください。

チケットの販売は9月1日を予定しています。

「卍プロジェクト」ホームページ内に当公演の特設ページがあります。最新情報および作曲家の新垣隆氏から推薦文をいただきましたので、併せてお読みくだされば幸いです。

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西澤健一:オペラ「卍」 管弦楽版初演

2021年12月8日(水)18:30開演(17:30ロビー開場)

めぐろパーシモンホール 大ホール


指揮:西澤健一 

演出:三浦安浩


光子:新宮由理

園子:津山恵

孝太郎:横山慎吾

綿貫:岡元敦司


原作:谷崎潤一郎『卍(まんじ)』


助演:飯塚奈緒

美術:松生紘子

照明:矢口雅敏

衣裳コーディネート・ヘアメイク:濱野由美子

舞台監督:近藤元

演出助手:根岸幸


文化庁「ARTS for the future!」補助対象事業

主催:卍プロジェクト

後援:目黒区、芦屋市谷崎潤一郎記念館、一般社団法人北海道二期会、国立音楽大学東京同調会