2020年9月9日水曜日

西澤健一作品展 ~日本語の季節~

◇2020年10月23日(金) 

 17時00分開場 17時30分開演
 (※開演時間にご注意ください)
 全席自由・入場無料(限定80席・完全予約制) 
 豊洲シビックセンターホール
 (東京メトロ有楽町線豊洲駅下車7番出口徒歩1分)

◆出演
 西澤健一(作曲・ピアノ)
 新宮由理(メゾ・ソプラノ)
 荒井章乃(ヴァイオリン)

プログラム・ノート(楽曲解説部分のみ有料¥500)


◎ごあいさつ 西澤健一

 新型コロナウイルス感染症の拡大が懸念され、文化イベントの自粛要請が発出された二月末以降、私たちはまだ、自由に音楽を楽しめる環境にはありません。そもそも、決して油断ならない状況が続く現在において、演奏会を催すのは正しいことなのか、非常に迷いました。が、その渦中にあるからこそあえてやらねばならぬこと。それは、私たちの「ことば」を思い出すことではないか、と思いました。私たちは日々新しい語彙に翻弄され、脅かされています。ゆえに、いま一度、私たちが根底に持つ「ことば」を呼び起こすべきではないかと思いました。

 今回は「日本語の季節」と題し、私たちが幼い頃に親しんだ童謡(『童謡物語「かくれんぼ」』)唱歌(『唱歌伴奏集』)の編曲集と、春夏秋冬が題材に選ばれた中原中也の詩を四編選び付曲した歌曲集(『中原中也の詩による4つの歌曲』)および、原民喜最後の小説を基にした歌曲集(『心願の国』)を、またその間奏曲として、ヴァイオリン作品二題(『4つの小さなメロディ』、『無伴奏ヴァイオリンのための小ソナタ』)をお届けします。

 私にとっては「新しい生活様式」下での新しい試みです。不慣れな点も見受けられるかとは存じますが、なにとぞよろしくお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。

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◇チラシ裏面の誓約書を受付に必ずご提出ください。◇お客様どうしの会話はお控えください。入場時の手指消毒、ホール内でのマスク着用にご協力ください。◇終演後の出演者との面会はできません。プレゼント等も辞退申し上げます。◇当日の受付業務を簡略化しております関係でプログラム等は配布しておりません。◇動画配信用の撮影が入りますので予めご了承ください。◇ご協力いただけない場合には入場をお断りすることがあります。

◆プログラム

童謡物語「かくれんぼ」
 ・かくれんぼ ・あんたがたどこさ ・通りゃんせ
 ・ずいずいずっころばし ・ないしょ話 ・揺籃のうた
4つの小さなメロディ
中原中也の詩による4つの歌曲
 ・春の日の歌 ・いちじくの葉 ・秋の日 ・冷たい夜
心願の国(初演)
無伴奏ヴァイオリンのための小ソナタ
唱歌伴奏集
 ・朧月夜 ・われは海の子 ・虫のこえ ・冬景色 ・ふるさと


【予約】

QRコードを読み込むとメールを送ることができます。お名前、ご住所、連絡先(メールアドレス・電話番号)を明記の上、送信してください。複数名で参加ご希望の方は、お手数ですが全員分の情報をご記入ください。折返しご連絡を差し上げます。その他のお問い合わせは当サイトのメールフォームか電話03-6421-1206(スタジオ・フレッシェ)までご連絡ください。

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【動画配信/投げ銭・カンパのお願い】

この演奏会の様子は後日You Tube上にて動画配信いたします。
当日の演奏会、動画とも無料でお楽しみ頂けますが、投げ銭・カンパにご協力くだされば大変ありがたく思います。おいくらでも構いません。PayPalのアカウントをお持ちの方はリンク先paypal.me/studiofroescheから、PayPay、現金は当日のみ受け付けます。またプログラムを用意しております。楽曲解説部分のみ¥500円で販売しております。こちらも合わせてご利用ください。


感染症対策のため、チラシ裏面の誓約書を切り取るかコピーし、回答の上、(チラシがお手元に無い場合には以下部分を印刷、回答の上)当日受付に必ずご提出ください。お手数をかけますが、円滑な会の進行のため、皆様のご協力をよろしくお願い申し上げます。

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誓約書

私は2020年10月23日現在、以下の状況であることに相違ありません。

  1. 体温37.5度以上の発熱がある。(はい・いいえ)
  2. 呼吸器症状、強いだるさ、味覚・嗅覚障害など新型コロナウイルス感染症を疑う症状がある。(はい・いいえ)
  3. この2週間以内に、いわゆる「三密」のハイリスクな場所を訪れたことがある。(はい・いいえ)
  4. この2週間以内に、海外へ渡航した。または海外から帰国した。(はい・いいえ)
  5. 同居家族や身近な知人に新型コロナウイルス感染症と診断された人がいる(はい・いいえ)

上記事項のうち、1箇所でも回答欄左側に○がつく場合には、参加を控える必要性があることを理解しました。

 住所

 電話・メール

 自筆署名

2020年7月23日木曜日

青い森紀行 ~寺山・棟方、恐山

 鎌倉仏教のひとつ、時宗の開祖・一遍は、死のひと月前の朝、阿弥陀経を読誦ののち自らの所持する書籍等をすべて火にくべて、「一代の聖教皆尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言ったと伝えられている(『一遍上人語録』下巻・門人伝説106)。
 平安時代の僧・空也の金言「捨ててこそ」を座右の銘とし、「衣食住の三は三悪道なり」(同75)と断じ、住所を構えず、念仏に踊り、人々に札を配り続けること15年半、日本全国を遊行し尽くした果てに、摂津の地で斃れた。熱狂者の生涯だ。
 書籍を燃やした日の朝は気持ちよく晴れていただろうか。ぱちぱちと焚き木のはじけるほか何の音もしなかったかもしれない。言葉という言葉が一筋の煙となって青空に昇り、透明になっていく。空の高さと、ただ吹く風と。火の傍らに立つ、やせ細った晩年の僧…。超人めいた空海に勇猛な日蓮など、仏僧の物語は威勢の良いものも多いが、得体の知れない悲しさに胸がしめつけられるような思いをしたのは、一遍のものが初めてだった。

 若かりし僕に一遍を教えてくれた柳宗悦『南無阿弥陀仏』(岩波文庫)の巻末に、晩年、体が不自由になってから作られた短文集『心偈』が収録されている。カットは棟方志功だ。棟方と言えば、僕のような世代のものにとってはテレビに出てくる「変なヒト」という印象が抜けない。が、本書を読んで、数枚のカットを見て、考えが変わった。2018年、谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』をオペラに書いている際、棟方の装幀と向き合ったことで、はっきりと尊敬に変わった。
 今回、熱狂者・棟方を偲びに青森を訪れて、思いがけなくも、人が言葉として透明になっていくということを我が身のこととして感じる機会を得た。ゆえに(青森とは直接関係ない)一遍の話を引いたのだが、まずは、三沢市到着の朝から語る。

* * *

 閑古鳥の鳴く東北新幹線を降り、八戸で青い森鉄道に乗り換え、三沢駅へ。冷ややかな風が明らかに東京のそれと違う。腰に巻いた上着を解いて肩に羽織った。北欧の夏のようだ。
 人っ子ひとりいない駅ビルの階段には「ソーシャル・ディスタンスにご協力ください」という張り紙が見えた。人と会わずに引きこもってきた中年男が、夏休みに入る前の平日に、人のいない場所を個人的に旅行しているわけである。時節柄とは言え、複雑な心持ちにもなる。

 三沢に宿を選んだのは、もうひとり、寺山修司を偲ぶためだ。
 駅からタクシーで二十分ほど。小河原湖の岸に沿ってフェンスに覆われた道路が走っている。広大な米軍三沢基地と、ささやかな軍人用ビーチ、熱心に軍用機を撮影するカメラ小僧を見送ると、「市民の森公園」の一角に、渋谷の天井桟敷館を思わせる例の顔が壁面に埋め込まれた三沢市寺山修司記念館が見えてくる。人の気配がまるでなく、営業しているのかどうか気が気ではない。
 僕にとって寺山は羨望の対象だった。ひとつに、前衛やアングラがもっと社会の近くにあった時代の、その中心で、スターとして生きていたこと。どちらの言葉も消えてしまった今の時代にあってはもう望めない生き方だ。ふたつに、青森という故郷に強烈に根を張っていること。映画『田園に死す』における新宿駅前の使い方は、少なくとも、新宿の子である僕には発想できない。

 館内は主に常設展示室と特別展示室の二部屋。常設展示室中央には十脚ほどの机が並んでいる。各々それらの抽斗を開け、懐中電灯で照らしながら覗き見るという凝った作りだ。恥ずかしながら今まで知らなかったことも知れたのは収穫だった。カルメン・マキの歌は知っていても、五木ひろしの歌う古賀政男作曲の歌もあるとは知らなかった。

 特別展示室には「オリンピックと寺山修司」と題された企画が展示されていた。東京五輪に合わせたスケジューリングだったのだろう。今や世界は祝祭どころではない事態となったが、こちらの展示も祝祭の雰囲気とは程遠いものだ。なにしろ、『青少年のための自殺学入門』の原稿、カミソリで頸動脈を切り自ら命を絶った64年東京五輪マラソン銅メダリスト・円谷幸吉選手に触れた部分のそれが真っ先に目にとまる。備え付けのラジカセからは、修司が録音し繰り返し聴いたという「円谷あと80メートル!」の中継も流れていた。
 僕が6年前に書いた歌曲集『自殺者たち』は、当初、円谷の遺書を念頭に着想されたものだったのをふと思い出した。もっとも円谷の言葉はどうしても僕自身の言葉となるには至らず、芥川や太宰といった4人の本業作家の遺書に置き換えられたものの、夏目漱石『こころ』の、Kの遺体を発見する先生のくだりを曲集の最後に置く構成は、それこそ「自殺というよりは他殺であった」という寺山の評への連帯として、初めから企図されたものだった。
 寺山は羨望の対象だったから、自分に近いものを感じてはこなかったのだけど。思わぬ形で原稿を再読するうちに、僕の考えが変わり始めた。自分の内側にある寺山的なものを意識し始めた。

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 棟方志功記念館へは、青森駅からバスに乗り平和公園の近くで降りる。友人によれば公園には幽霊がいるらしい。が、昼間なので、それらしきものは見えそうにない。
 校倉造りの特徴的な建物は残念ながら補修の最中だった。中はこじんまりとしていて広くはない。展示室に入ると、かの有名な『二菩薩釈迦十大弟子』が一面にあって圧倒される。この時期の僕にとっては幸いなことに、ここも、他の客が一人もいなかった。

 『瘋癲老人日記』をオペラに書いている際、棟方志功の装幀が僕のイメージを豊かに膨らませてくれたのを覚えている。顔の造作は詳細に描かれず、少し尖った乳首の目立つ颯子の姿。指先にある丸いものは体よく手に入れたキャッツアイの指輪なのか、しかしその手は来迎の印相のようにも見え、もはや通常の方法では叶えられない性欲と、死後の救済とが渾然一体となった影法師…なるほど督助にとって、あるいは谷崎にとって、女体とはこういうものであったのだろうことが、わざわざ冒頭で「(女体に限りなく近い)男体」である女形との記憶を明かしている理由が、文章だけでは伝わらない部分が、掴めたのだった。棟方にとっても、女体とはそういうものだったかもしれない。館内に展示されていた『湧然する女者達々』を観ながら、そんなことを考える。

 ニューヨークなど海外で手掛けた作品が展示されていたのが面白かった。Sの字などが鏡像にひっくり返っているのに愛嬌がある。なにより声が漏れたのは、ゴッホ『ひまわり』の模写2点。「わだばゴッホになる」の宣言どおり、ゴッホになるための訓練の痕跡というわけだ。が、御本尊ゴッホとは決定的に違う性格のある部分が油絵具となってにじみ出ているのを認めると、僕のなかに少しだけ嫉妬心が湧いた。僕はこんなに楽しそうに模写などできそうにない。
 
* * *

 当地に暮らすYさんの力を借りて、十和田現代美術館を観る。常設展示はいずれも十和田にちなんだ題材が選ばれているとのことだったが、そのいずれも愉しい。美術館にしては珍しくガラス張りの建物で、街と作品が、日常と非日常が境目なく繋がっている。通りを挟んで向かいの敷地にも、ふっくらふくらんだ家、おばけ、草間彌生のかぼちゃが、町内の住人のような顔をしながら普通でございますとでも言いたげに佇んでいるのがおかしい。

 そのまま奥入瀬渓流に向かい、森林と川と滝とを楽しむ。雨のため流れが少し濁っていたが、それでも十分に美しい。界隈に一件しかない食堂で、南部名物牛のバラ焼きとせんべい汁を食す。

 十和田湖に着く頃には雨が止んでいた。ほとりに鎮座する十和田神社は今まで見てきた神社の中でもっとも静謐な佇まいを持つもののひとつだった。修験の霊場だったというが、霊場という言葉は確かにしっくり来る。湖岸には高村光太郎最後の作品『おとめ像』もあった。この日だけで、現代の美術と明治の人の彫刻をハシゴしたわけである。

 それにしても、ここでは芸術をいっそう身近に感じる。美術館の数が多いというのもあるけれど、それなら東京のほうが数は多いに違いない。だが、多いは多いのだが、ものの十数分で見に行けるのだが、身近という感じがしない。どうしても街に必要なものとして扱われているように感じないのだ。
 奥入瀬のホテルに寄り、敷地内にある岡本太郎の河童を拝見させてもらった。青々とした草に遊び、雨に戯れる像。誰もいないし誰も見ていない孤独な像なのだが、核廃絶を訴える『明日の神話』が通りゆくすべての人々にことごとく無視されている渋谷マークシティに比べたら、生き生きとして、幸せそうに見える。どうしてもここにいなければならない理由を感じる。

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 三沢から乗った快速しもきたは一両編成で、混雑しているというほどではなかったけれども、人はいた。陸奥湾を左手に北上し下北駅で降り、一日3往復しかないバスに乗る。換気のために窓を開けようにも、錆びついているのか、なかなか開かない。車内放送で民謡らしきものが流れているようだが、エンジン音が勝り、まったく聞こえない。急勾配の曲がりくねった山道に40分ほど揺られると、ほのかに硫黄の香りがしてくる。恐山である。

 本堂を参拝し、本堂裏から宇曽利湖を見渡す。色らしい色の無い一面の岩石だ。モノトーンの世界にはところどころに硫黄の黄色が差され、賽銭は青色に変じ、ピンク色の風車がそこかしこでからからと回り続けている。ただただ風が吹き、ときどきカラスが鳴き、温泉がふつふつと湧き出している。それより他に音らしい音は無い。
 大祭の日には様子も違うと思うが、観光客らしき人はあまりいない。石を手に持ち「やべえ」と声を上げている若者3人組は、もちろん興味本位の奴らだろう。腰の曲がった老婦と孫と思しき女児が供物の入った袋を手に参拝しているのは、地元の人だろう。そう見ると、地元の人々が三々五々と確認できる。新盆だからだろうか。中高生くらいの女の子3人組が、袋いっぱいの風車や菓子の類をお供えしながらおしゃべりしているのが風に乗ってくる。青森のアクセントは鳶や梟の歌うようで、美しい。

 八角円堂を覗く。名札を貼られたわらじ、スーツなどの遺品、名前を与えられるより前に旅立たなければならなかった命を記した木札が地蔵菩薩の脇にたくさん供えられている。ここにあるひとつひとつのものが、ひとつひとつの死であったことを思う。つい先日、僕もひとつの死を見届けた。ここにある死の数だけ悲しみがあっただろう。お地蔵様はたいへん素朴な立ち姿で、黙って合掌している。故人の冥福を祈る遺族の言葉を、ここで黙って聞き続けている。
 むしろ人々の悲しみが地蔵菩薩の姿として結晶化したのかもしれない、と思った。生きていく以上悲しみは避けられず、死んだ人を蘇らせることもできない。しかし、悲しみを悲しみとして共に受け止めてくれる存在があるだけで人はどれほど慰められるだろう。ただ人々の悲しみのそばにいる。その行いはどんな奇蹟よりも人を救う。その行いをするすべての者の名を象徴するものとしてのお地蔵様だ。千年前から、千年後も。すべての命が再び大地に飲み込まれるときも、お地蔵様は共にいてくれるだろう。この山にいるお地蔵様はすべて、そういう凛とした決意のある顔をしている。生まれてはじめて、宗教のものを見て「ありがたい」という心が起こった。

 興味本位の若者3人組はさっさと帰ってしまったようだ。参拝を終えた地元の人たちもほとんど帰ってしまった。門前の土産屋と蕎麦屋は昼過ぎには閉まった。静かな湖の岸に立つと、不幸な事故で失われた若者を偲ぶ碑があった。遺族や友人たちがこの碑にどれほど言葉をかけたことだろう。ふと、東日本大震災供養塔から鐘の音が聞こえた。鐘の音は山々に鳴りひびき、そして消えた。「一代の聖教皆尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」の言葉を思ったのはこのときだ。

 80年代から90年代にかけて、恐山はバラエティ番組であまりにも面白おかしく色付けされてしまった。大切な伝統文化を胡散臭いオカルトとして消費してしまった。僕もその世代に育ったから、実際に参拝するまでそういうイメージが頭の片隅にあったのを否定できない。そんな我々の、まったく恐るべき軽薄さに比べ、宇曽利湖畔のなんと静かなこと。なんという純粋な悲しさの結晶。
 死んだ人は言葉になるのだ。と、寺山修司は言った。すべての具象を離れ、抽象になっていく。透明になっていく。人は圧倒的な力で透明になってしまう。圧倒的な力に耐えられないからこそ、我々は時に軽薄にもなって自分を誤魔化しもする。その根源にあるのは、得体の知れない悲しさ。悲しみこそ人間の感動のなかでいちばん大切なものだと棟方志功は語った。悲しみを純粋に悲しみとして悲しむ強さに浴し、混乱の時代に住まう僕の心は、少し、軽くなったような気がした。
 
* * *

 書ききれませんが、今はここまで。今度は弘前や五所川原にも、Covid-19が落ち着いた暁にはねぶたの季節にもお邪魔したいものです。なお、僕が2メートル以内の距離で接触したと言える青森在住の方は文中のYさん1人のみで、文中の奥入瀬の食堂(これしか選択肢がなかった)以外の食事は、もっぱらお弁当、駅自販機のパン、ドライブスルーのお寿司など。極力、人との接触をしないよう留意したことを書き添えます。さすがに味気なかったので青森食もリベンジしたいです。

2020年5月31日日曜日

かき消された声 ―ブルーインパルスに

 JR川越線・武蔵高萩駅には、かつて貴賓室があった。
 いかにも地方の国鉄駅といった風貌だった瓦葺きの駅舎も、今ではすっかり現代的なものに建て替わってしまって、往時の面影はない。そこから国道407号線に沿って車で20分ほど南下すると航空自衛隊入間基地がある。もともとは旧陸軍航空士官学校だったところだ。ここを昭和天皇が行幸した際、旧国鉄では最寄りとなる武蔵高萩駅が利用されたのである。
 陛下最後の行幸は、ウィキペディアによると昭和19年3月20日のことという。当時、埼玉県入間郡豊岡町(現・入間市)の学校に通っていた父は、その日は朝から校庭に正座して、ずっと地べたに額をこすりつけていた。学童一同ズラリと校庭に並んで陛下をお迎えしようというのである。
 底冷えのする厳しい寒さの一日だったそうだ。耐え切れなくなった子どもたちが頭を上げると、その瞬間、教師たちはもぐらたたきのように竹刀で殴りつけた。なかには小便を漏らす子もあった。陛下がいつ駅に着き、いつ士官学校をご覧あそばされ、いつ皇居へお戻りになられるのかを子どもたちが知るはずもない。ただひたすら、土下座するよりなかったのである。
 さすがに辛かったよ。と、今は亡き父は言っていた。
 10歳になろうかという父が校庭で土下座していた翌年には、5歳を迎える弱視の母が、そよそよと米粒の泳ぐ粥を食って腹をなだめながら、立川の防空壕で幾度かの空襲を耐え忍んでいる。湾岸戦争の頃はテレビニュースから流れるびゅうびゅうという弾薬の音を聞きながら苦しそうに呻いていたが、もしかしたら、幼いころの記憶が蘇っていたのかもしれなかった。

 生物学御研究所の雑草駆除を許さず、山に入ればミミズが地面を横切る様子を夢中になってご覧になり、道端に死んでいるガマを弔い、海に行けばアメフラシを生のまま食され、エビやクラゲの新種を発見するほどの根っからの自然好き、博物学者肌である陛下が、これらを良しとされていたのだろうか。知らされなかったか、何も言えなかったか。事実、ただひとつの聖断を除いて、陛下は生涯何も仰らないことに徹されたのである。新憲法下では「象徴」だったし、旧憲法下でも(僕の父が生まれる昭和10年までは)美濃部達吉の天皇機関説が正当な憲法解釈だったから。昭和53年生まれの僕が記憶するテレビのなかの陛下も「あ、そう」という素っ気ない返事しか口にしなかった。
 その代わり、陛下はいつもモゴモゴと口元だけを動かしていた。その様子が映し出されるたびに「よほど言いたいことが溜まっているんだろう」と母が同情するように言った。俺は神ではないと宣言せねばならなかった陛下には、ミミズやアメフラシくらいしか対等に付き合える友がこの世にいなかったかもしれない。崩御後明らかになった様々な記録からも、言いたいことが何も言えなかった陛下の素顔が垣間見える。行幸先の有力者たちの強すぎる忖度に、遠慮会釈のない万歳三唱の声に、陛下の御心はかき消されたのだった。

* * *

 戦後の新宿・渋谷を謳歌していた両親も、乱脈な都会で子育てなどできないと思ったのか、僕が幼稚園に入園するのに合わせて埼玉県狭山市に引っ越した。僕たちはそこで10年を過ごした。狭山市は父の故郷、入間市の隣にある。もちろん沖縄の深刻さとは比べ物にならないが、少年時代、基地は近くにあった。ゆえに、良くも悪くもそれを当たり前のこととして受け入れてもいた。
 庶民が基地が近くに住むと少々のメリットがある。「ジェット航空機特有の騒音が頻繁に発生することによるテレビ放送の『聴取障害』の緩和に資する」ため、NHKの受信料が半額補助されること。我が家の場合は母の視覚障害が別の半額免除の対象だったので、当時は受信料を払わずに済んだ。
 これは僕とは関係ないが、米軍ジョンソン基地時代に周囲に建てられた通称「米軍ハウス」が市民に良質な住宅を提供していたこと。細野晴臣が住んでいたらしい。それに、航空祭。七夕まつりと並ぶ市民にとっての風物詩だった。このときばかりは騒音も心地よく感じる不思議。
 デメリットは、その日常的な騒音が最大のものである。中学校の校舎は二重窓だったものの、機体が上空を飛んでいるときには教師の声がまったく聞こえなくなるほどだった。自衛隊員を親に持つ仲の良い同級生が転校していったのも悲しかった。
 
 僕が狭山で少年の時を過ごした10年間に、社会科の地図帳はめまぐるしく変わっていった。ベルリンの壁が壊れ、東ドイツと西ドイツはドイツになった。リトアニアが独立し、ラトビアとエストニアが続き、ソビエト連邦は独立国家共同体になった。冷戦が終わった。EUが発足した。今の人間が生きているうちは無理だろうなどと思われていたことが立て続けに起こった。
 いかがわしいビデオ屋だけが軒並み営業していた昭和64年の薄暗い正月を経て、昭和天皇が崩御した。美空ひばりが死んだ。手塚治虫が死んだ。山が動いて55年体制が崩壊した。1994年、村山富市が首相に就任するや声明を発表し、一夜にして自衛隊の違憲議論に終止符が打たれた。自民党と社会党が手を組んだ。ありえないことが立て続けに起きていた。
 世界は日々新たに更新され、新しい時代の新しい枠組みが試され、人類は希望ある未来に確かな足取りで向かおうとしていた。ミレニアムの祝祭の声が、9月11日に、青く澄み渡ったニューヨークの空の下で二棟の高層ビルもろともかき消されるまでは。

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 5月29日。我が国のSNSはブルーインパルス一色に染まった。
 東京に住むようになって長らく忘れていたエンジン音が耳の奥で突然響いた。「医療従事者などに対する経緯や感謝を示すため」という理由は、まるで「太陽が眩しかったから」のように滑稽に映った。あの轟音は、むしろCovid-19の拡大に苦しむ人々の様々な不満の声をかき消すのに適している。からりと乾いた青空にたなびく飛行機雲の心地よさに抗うのも難しい。
 狭山や入間の市民たちが思いがけないブルーインパルスの出現に喜ぶなら、とても良く理解できる。今年は航空祭も諦めなければならないのかと考えていた頃だろうから。だが、先週の今ごろは自衛隊のことなど思い出しもしなかっただろう都内の人々が、日常的な轟音と付き合ったこともないだろう人々が、空を見上げ無邪気に喜びあっているのはいったい何だろうか。平成30年間を経て「ゆるふわ」な表現になったものの、寒空の校庭に土下座していた父たちと何が違うのだろうか。
 
 両者は、表現形こそ違えど、人々の考えを奪うという部分においてまったく共通している。人の考えの自由を奪うものという性質を一にしている。それは昭和天皇その人の尊厳を完全に奪い去った万歳三唱と同じものだ。砂漠に水を撒くような気持ちで強調するが、これは自由と尊厳の問題である。狭山の子として育った手前、僕も航空ショーは好きだ。が、好きという理由だけでは断じて受け取れない。自分の足を運んで仰ぎ見る航空祭のショーしか僕は受け取らない。喜ぶものを与え「さあ喜べ」と言うのは、端的に言って、暴力である。事前に別の喜びを奪われていれば尚更である。父たちを殴りつけていた竹刀が別のものと入れ替わっただけで、構造そのものにまったく変わりはない。殴る蹴るよりも、この構造こそが、暴力を強く定義するのである。

 この30年間で、不戦の誓いを立てたはずの我が国はイラクや南スーダンに兵を送った。「自衛隊を憲法違反という人たちがいる」という言い方で、終止符が打たれていたはずの自衛隊違憲議論が再び蒸し返された。様々な蓄積がかき消され、上書きされた。そうした知見の断絶ゆえか、今日の社会はまるで半世紀前を彷彿とさせるような反共戦線を熱心に構築している。
 だが、今日明日のうちに東京の街が戦火に陥落するようなことは、おそらく無いだろう。戦争は相手のあることだから、相手がいないとなれば戦争にもなりようがない。他国の手を煩わせなくとも、「獅子身中の蟲の、師子の肉を食ふが如し」の喩えどおりに、崩れるときは内側から崩れるのだ。我が国の蟲は全体主義である。右派や左派の類ではない。安倍晋三といった個人名でもない。
 父たちを殴りつけた教師その人ではなく、竹刀を持つ腕を動かしたもの。昭和天皇に遠慮会釈のない万歳をしたその人ではなく、彼をして万歳させたもの。ブルーインパルスを見ていた人たちではなく、彼らに空を見上げさせたもの。ブルーインパルスのクルーたちではなく、彼らを東京の空に飛ばせたもの。東京の空を飛んでくるようクルーたちに指示したその人ではなく、その結論に至らしめたもの。それらは小さな善意、小さな忖度、誰も悪いものとは思いもよらない、むしろ道徳的には良いとされているものの積み重ねだろう。それこそが、最終的に道を誤らせるのだ。

* * *

 悪業を積む者がさらに悪業を積むことがないように、一刻も早くその生命を絶たせてあげたほうが良い。そのように理論立て、殺人を善行と定義した団体があった。彼らは一国のなかに別個の「国」を作り自文化中心主義を満足させていた。その団体が起こしたテロ事件によって平成という時代が始まったことを思い出したい。「自分たちは選ばれている最高の存在である」と彼らは言っていた。現在の我が国はどうだろうか。「日本は凄い、外国人が称賛の声」と言っている我々は、いったい彼らと何が違うだろうか。我々は、平成という時代が終わる間際に、彼らの頸を刎ねたのである。
 結局のところ、我々は社会としてオウム事件を総括しなかった。深い洞察をする個人がいても、それらの洞察が社会として共有されたことはない。社会の総意としては、体よく忘れよう、というわけである。同胞すら「善行」として殺すに躊躇しない我々。半世紀前から犬猿の仲である共産党と公明党も、ともに、特高に殺された大切な人を思い出せるだろう。
 いわんや、である。アメリカでは、とある黒人が無実の罪で警官に殺された。時おなじくして、渋谷で、とあるクルド人が警官に暴行され首に全治一ヶ月の怪我を負った。僕はこれらのニュースを読みながら、ある一篇の詩を思い出していた。自分たちは選ばれている最高の存在であると思いたいがためだけに、人間という存在を蹂躙してきた我々の歴史を思い出させる一篇の詩だ。

辛よ さようなら
金よ さようなら
君らは雨の降る品川駅から乗車する

李よ さようなら
も一人の李よ さようなら
君らは君らの父母の国にかえる(『雨の降る品川駅』中野重治)

* * *

 祖父母は家族で食べる分の小さな畑を庭にこさえていた。戦中はその畑から野菜を盗まれることがたびたびあったそうだ。これ以上盗られたらたまったもんじゃない。夜中に見張っていると、果たして、彼らはやってきた。動く人影をよくよく見ればそれは近所でも知れた軍人の家族だった。「こっちはお国のために戦ってんだ。野菜くらいで何だ!」逃げるでもなく開き直ったという。このように言えば引き下がってくれる前例もあったのだろうが、祖父母とも気性の激しい人だったから、自分の畑が荒られた上に開き直られたのが癪に触る。「この野郎!」と木刀を手に追いかけ回した。父は上気しきった顔で「とっちめてやった」と凄む祖父の姿を記憶していた。

 ものの働きとして、権力は「自分」という存在を持てない。ゆえに権力が「自分」を持とうとしたときには、これを是が非でも斥けなければならない。権力が「自分」を持とうとするときに現れるのが「全体」である。野菜泥棒に「こっちはお国のために戦ってんだ」と言わせたものが「全体」である。ほんとうは自分にとって都合の良い「全体」でも斥けたいところだが、そこまで人間は誘惑に対して強くない。自分にとって都合の悪い「全体」が現れたときでも充分だ。プロテスト―抗議するということをしなければならない。人の自由を奪う「ものの働き」そのものに抗議するのである。

 恐れを知らぬ先祖を持つ者として、僕は、その血筋に、自らの自由意思で従いたい。

 それにしても、軍人の家族は家族で、それこそ亭主がお国のために命を投げ出し働いているというのに、たいして大きくない畑にも盗みに入らなければならないほど腹をすかせていたのだろう。そんな時代のいったい何が美化されているのか、僕にはまったく想像ができない。

2020年5月9日土曜日

南館病棟午後十時

 「生きながら死して、静かに来迎を待つべし」と云々。万事にいろはず、一切を捨離して、孤独独一なるを、死するとはいふなり。生ぜしもひとりなり、死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり、そひはつべき人なき故なり。(一遍上人語録)

 「…2時間ですか。」
 「ええ、今からそちらに向かうとすると、どうしても。」
 「わかりました。では、お見えになると考えても…」
 「急ぎます。が、つまりはそういう状況なんですね?」
 「かなり切迫しています。」
 病院からの電話を切り、急いで身支度を整える。約3ヶ月ぶりに乗る電車は東京のものとは思えないほど閑散としていて、いつもこれくらいならありがたいのに、などと思う。地下鉄、準急、急行と何度も乗り継いで埼玉に向かった。
 父が倒れたのは2月だ。母が言うには、自分ですべての入院支度を整え、自分で救急車を呼んでからそのまま昏睡したという。いかにも父らしい気がする。執刀医によれば6年前に挿入した人工血管が破れていたとのこと。あのときも長い手術だった。今回も8時間に及ぶ手術に耐えた。術後はすぐに意識を回復し、予後も順調で、リハビリさえ始めようとしていたところだった。

 「これがお父様のCTです。」
 小さな部屋に通され、すでに到着していた母とともに主治医からの説明を聞く。医師顔という典型があるかどうかは知らないが、僕の医師の友人に少し似ていた。
 「今日の晩から苦しさを訴えられて…。胃液を吐くことは度々あったんですが、今までは上手く吐けていた。ところが今日は上手く吐くことができなくて、誤嚥性肺炎を起こしてしまった。ほら、ここが白くなっているでしょう。それで、気になるのは白血球の値なんです。普通は炎症を起こすと上がるはずなんですが、お父様の場合、逆に下がっている。これは入院された当初の値。6,000くらいありますね。これが先程の値。1,400くらいしかない。」
 「…あの、つまり、主人は大丈夫なんですか?」
 医師の丁寧さと家族の焦慮とは、残念ながら、しばしば噛み合わない。
 「今日お呼びしたのは、この先の方針についてご家族で話し合って頂きたくて。今日は息子さんを待つことができましたが…」
 いつ何時、それこそ今にも、致命的な状況になるとも限らないわけだ。
 「私どももお父様の命を預かっているわけでして…たとえば人工呼吸器をどうするか、というようなことです。最近はコロナなんかでご存知でしょうけど、もちろん病態はもっと違いますけどね。人工呼吸器というのは太い管を喉に挿して強制的に呼吸させるものですから、辛いんですよ。回復の見込みがあるなら、それこそ息子さんのように若くて元気なら、やるべきだと私もすぐに言えるんですが…。ああ、簡単なパンフレットを用意してありますので、お母様に差し上げましょう。」
 医師の話など耳に入らない母は「とうとうだめかなあ」と独り言ちている。

 コロナ禍の渦中にある昨今、どこの病院も面会を基本的には停止している。無論、父の入院する病院もだ。緊急事態宣言の後は特に、ティッシュや入れ歯洗浄剤を持っていくという場合においても会えるとは限らない。僕としても、もし仮に自分が無症状のキャリアであったなら、とてもではないが責任を持てない。が、この日は面会を勧められた。
 「今は朦朧としてますが、意識はあります。私はご入院されたときからお世話させていただいているんですよ。だからね、お元気なお父様も存じているんですけど…」
 ふわふわとパーマを巻いた看護師が僕たちを案内しながら言った。夜ということもあってほとんどの照明は落とされている。そう言えば、かつては僕もこの病院に骨折で入院したことがあった。おかしなことに母もまったく同じ時期にこの病院に入院したのだった。苦笑していた父を思い出す。あの頃は院内の至るところに灰皿が置いてあったものだが、数年前に建て替えたらしい。暖色系の壁紙に、清潔な匂いがする。

 「西澤さん、ご家族の方がね、ご面会にいらしてくださいましたよ。」
 父はうっすらと目を開け、僕を見て、また閉じた。口を開け、はあはあと息を立てていた。隆々たる筋肉に覆われ、80歳近くになるまで病気らしい病気をしてこなかった頑強な父が、ほとんど骨と皮だけの姿となってベッドに横たわっていた。
 「鼻に挿しているチューブは胃まであります。もうお腹がほとんど動いていないので胃のものを便にして出せないんですよ。食べるのが難しいので点滴しているんですが、もう血管が脆くなってしまっていて。いま挿している腕の静脈が持てば良いんですが。昇圧剤も入れてますが、それでも血圧が100に届かないくらい。体重は37kgです。」
 「37キロ? おいおい、まるで小学生じゃねえか。」
 母が素っ頓狂なことを言う。
 「では私は席を外しますので。何かあったら呼んでください。」
 布団からはだけた父の脛をまじまじと見た。こんなに脛毛が薄い人だったのか、と、40年目の親子関係にして初めての発見をする。脛の肌色に比べて、まだらになった腕の青さがいかにも痛々しい。確かに、何度も何度も点滴を挿したのだろう。母が無言で父の額をさする。歳の割には、父の髪はしっかりしたままだ。
 すると、介護用ミトンに覆われた父の手が宙に浮いて、なにやら円を描きはじめた。一生懸命喋ろうとしているが、声になりそうにない。
 「どうしたの?」と母が訊く。
 「水飲みたいのかね。」
 父は横に首を振った。問題なく聞き取れているらしかった。
 「なに言ってんだか分かんねえだよ。」
 文句を言う母を脇に、父は顔をしかめた。不機嫌なのか、苦しいのか、困り果てているのか、泣きたいのかが判別できない顔をした。僕は不思議と思うところがあった。
 「手袋を外したい?」…父は頷いた。

 父は自分の弱みを見せない人だった。戦争中の教育を受けたからなのか、やたら辛抱強かった。母が僕を身籠ったとき、母とともに酒をピタリとやめた。以来一滴も飲まなかった。父は良き父であろうとした。自分の規範を自分で厳格に決めた。前半生の反省がそうさせたかも知れない。僕も全ては知らないが、いろいろあったらしいから。ただ、その激しい気性を理性で抑え込んでいるのを僕は幼心に分かっていた。父の自分自身への厳しさは、時として、良き息子になる才能のない僕にとって重荷になることもあった。
 僕と父は、家族とはいえ父と息子とでは全く違う人生があるという当たり前の事実に、何度も何度も向き合う必要があった。僕たち親子はその試練にあまり成功しなかったかもしれない。父が黙って耐えるという選択をしたから、必然的に僕も黙らざるを得なかった。父という役割を重んじるあまり、要するに、素直になれなかったのだ。僕は、自分のオペラ『瘋癲老人日記』第2幕の浄吉の台詞に、それを忍ばせた。父には慳貪に扱われる浄吉の想うところを想像し得たから、原作の台詞を拾うだけでは足りない彼の言葉を創作できたのだった。
 
 どうです父さん。少しは良いですか。…まったく強情っぱりで。父さん、少しは颯子を頼れば良いんですよ。僕たち腹を割って話すことのなかった親子じゃないですか。でも、案外、僕は父さんのことを分かってるつもりなんですよ。颯子のことだって分かってます。だから離婚もしないんです。とにかく、颯子にも良く言っておきますから。父さんも颯子のこと気に入ってるんでしょう? なんでもいいから颯子を使ってください。なんでもさせます。妙な方向かもしれないけど、これは一応、親孝行なんですよ。…それじゃあ、おやすみなさい。

 それが、いま、この時に至って、僕は初めて父の弱い姿を見た。良き父であるために息子の前で素直さを隠し通していた姿は、あれはあれでひとつの「素直さ」の発露だったのかもしれない、僕はずっと父を誤解していたかもしれない、と思い直した。確かに言葉は不自由しているかもしれないが、意識もあれば判断もできる人間にとって、両手の自由を奪われるとは耐え難い苦痛だろう。点滴の針を挿されるよりよほど根源的な苦痛である。「良き父」として振る舞うことに生きがいを見出した父は、人生の最晩年に、自らの屈辱的な姿を息子に見せなければならなかったわけである。

 「すみません、ミトンなんですが」
 「ああ、管を抜こうとしちゃうんでね、どうしても…」
 「ええ、分かってます。あの、できるだけ外してあげてくれませんか。夜は仕方ないと思います。理解します。でも、皆さんが起きていらっしゃるときは、できるだけ。それでもしものことがあっても決して責めるようなことはしませんから。お願いします。」
 ふわふわパーマの看護師にお願いし、ミトンを外してもらった。その瞬間に、父はいつもの顔に戻った。確かにもう話せないし、いろいろと自由は利かないままだが、あれやこれやと指先で指示する父には、いつも通りの父を感じた。鼻に刺さった管が邪魔だ、水が飲めないから喉が渇くと手が雄弁に語りはじめた。
 「看護師さんに無理をお願いしたんだから、頼むよ。それじゃあ僕は帰るから。」
 「……。」
 「なに?」
 「……。」
 ゆっくりと動く父の口元を注意深く読み取った。
 「『コロナ?』」
 父は頷いた。
 「コロナに気をつけろ、ということ?」
 父は再び頷いた。
 「ものすごく気をつけてます。家からも出ていないから、心配しないで。」
 父は握手を求めてきた。父の手は冷たかった。

 「あたしはぶっきらぼうだからさ。」
 「知ってる。」
 「お医者さんに色々言ったけど、本当はもうお父さんに触って欲しくないんだよ。」
 「分かってる。」
 「そう、分かってるの。まあ、とにかく気をつけて頂戴。」
 「気をつけてます。そっちこそ気をつけて。」
 母を見送り終電に乗る。すると、またすぐ病院から電話が掛かってきた。すぐさま僕が決断しなければならないことがまだまだいろいろとあるようだった。本人の意志が今も強くあるにも関わらず、僕が決めて本当に良いものだろうか。それは分からない。本当は父の命に責任など持てるはずがない。が、僕が決めない限りは医師たちが動けない。ほとんどそれだけのために、僕はいくつもの決断しなければならないようだった。
 いま、父の命は最晩年を生きている。
 僕は、生まれたばかりの僕を抱いた父の年齢になった。

2020年4月28日火曜日

世の中の呪詛を静かに受け入れながら ―パチンコ屋の話

 ――この語を説きたもう時、会の中に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の五千人等ありて、即ち座より起ちて仏を礼して退けり。所以は如何。この輩は罪の根深重、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。(法華経)
 むかし、僕はパチンコ屋にいた。
 お世辞にもスタイリッシュとは言えないオレンジ色の制服を着て、左耳にはインカムを嵌め、何万というパチンコ玉のカチカチとぶつかり合う音を聴きながら、狭い通路の真ん中に立っていた。どうしてそんなところに立っていたのか。もちろん、お金を稼ぐためだった。
 19歳の頃に書いた曲で初めて賞を取って以来、僕は音楽を書き続けてきた。が、自転車操業は長く続かない。音楽史上最も偉大な作曲家の顔をして、自分を理解しようとしない世間の低俗さを嘆きに嘆いた。が、そんなことをしても腹は膨れない。働くしかなかった。たまたま目にした求人に電話し、はじめて履歴書を書き、はじめて面接を受けたのも、すべて、お金を稼ぐためだった。
 パチンコのことなど何も知らない。当たると玉が出てくるらしい。それくらいのことしか分からない。正直にそう言っても採用してくれるのだから、世界は優しい。しかも研修中の身でありながら、「機械に強そう」というレッテルを貼られ、管理者用の鍵を預かることになった。僕の登用と前後して責任者が不慮の事故に遭い入院したためだ。10年20年と活動しても評価の定まらない作曲界との何という違い。しかし、機械に強いはずの僕はタイムカードの押し方を知らなかった。

 新しい環境で生活するには言語を覚えることである。保留、掛留、倚音、転調、V度調属九。そんな言葉はもう何の役にも立たない。必要なのは、確変、時短、等価交換、ドル箱、ゴト師、これらの言葉だ。それから、どんなに物珍しい風習を見ても驚かないこと。新台に入れ替えた朝には、どこからか見たことのない媼がやってきて、店内の床に小豆や大豆を黙々と撒いていく。節分と同じく、一種の験担ぎなのだろう。撒かれた豆は開店までに掃除しなければならない。
 朝の掃除が終わる頃には、その地域に住まう者たちが続々と店の前に並びはじめる。おはようございますと挨拶しながらひとりひとりの整理券を確認する。が、誰もが素直に応じてくれるとは限らない。日本人男性の名前としか解釈できない会員カードを「これ、わたしの名前よ」と差し出してくるフィリピン人妻もいれば、「おめえ、あたしの名前も知らねえのか?」と凄んでくる婆もいる。「なんだ新入りか。店長に訊いてこい。」…彼女は影で野村沙知代とあだ名されていた。

 ――私には名刺もない、と西村は思った。不良少年の仲間では、自分の情人を持たないことは、その男の劣性を意味する。成年に達して名刺を持たない迂闊さは、おそらく、その人間の決定的な貧困を意味するのだろう。(『憂鬱なる党派』高橋和巳)

 客が席に着くと、当たり始めるまでしばらく暇だ。店が違えば風景も違うのだろうが、僕の勤めた埼玉の小さな店は少しうるさい養老院のようなものだった。大当たりに興奮してコーヒーをこぼす老人。カネを使い切ったのに気付かず死んだように空打ちし続ける老人。ものの一時間と経たない間に、野村沙知代は脱いだ靴を右手に握って「こんな台なんざブッ壊してやろうかこの野郎!」と、台の中の八代亜紀に向かって叫び始める。
 スロットコーナーではひとりのマダムが黙々と打ち続けている。鋭角的で小さな顔に華奢な身体、只者ではない服装のセンス、少し鼻にかかった声、鳥の巣のような髪型、時折りブルブルと振られる頭。常連の彼女は僕の大学時代の恩師と瓜二つだった。電卓片手にバルトークを分析しているはずの人が、咥えタバコの灰をぼろぼろと床に落としながらスロットを打ち続けている。ビッグ・ボーナスを引いたときの彼女の満面の笑みは口角の上がり方まで師匠そっくりで、妙な気分だった。

 02年の日韓共催サッカー・ワールドカップ以降、にわかに、我が国では「嫌韓」という潮流が生まれようとしていた。当時は韓国のほうが歴史修正主義だったので、首脳たちの珍妙な発言をあげつらうのは簡単だった。市民の間ではパチンコが槍玉に挙げられた。朝鮮人の経営者たちが日本人からむしり取って国に上納しているのだろう、という噂が流れ始めた。ギャンブル依存症、それに伴う多重債務、警察の天下り、様々な社会問題も提起され始めた。
 日本人のパチンコ店経営者が彼らを悪し様に言うのは、理解できる。同じ商圏内でシノギを削ってきた間柄だから。僕の勤めた店の店主は北朝鮮系の人のようだった。時折り、事務所にはハングル文字で書かれたファックスが届いていたし、店長と専務が口喧嘩するときも日本語ではなかった。
 ただ、巷の噂とはかなり様子が異なっていたのは、彼らは人が良すぎて商売が下手だったところだ。常連客に悪い台を勧めるということが本能的にできないようだった。そうして、客が一人しかいないという状況に限って高設定の台に座られる。逆の場合もある。我らが野村沙知代は低設定の台に座ったときだけどういうわけか当たり続ける。ギャンブルという商売は経営するのも博打のようだ。事務所で頭を抱える釘師の姿をよく見かけた。給料が分割で支払われるのもしばしばだった。
 
 台の入れ替えは営業時間を終えた深夜に行われる。数十台の大規模なリニューアルともなると、アルバイトが全員揃ってこれを行う。パチンコ台は20kg、スロット台は30kgもある。それら新しい台を、ひとつひとつ手作業で入れ替えていく。なかなかの重労働なのだ。
 金属臭く、黒く煤けた手を洗いながら、制服を脱ぐ。アルバイトたちは極貧のバンドマン、売れない芸人、役者志望、漫画家志望、他に働くところのないシングルマザー、性格をこじらせた作曲家の顔に戻る。およそ外では交わり合う機会のないだろう面々が、世の中に横溢する「自己責任」の呪詛を静かに受け入れながら、24時間営業の牛丼屋に頭を並べた。

 「あのね、千円使ってみたの。」
 「毎度ありがとうございます。」
 「出てこなかったの。なんでかしら?」
 「何ででしょうねえ。」
 「やっぱり千円じゃ出ないのかしら。」
 「千円で出るときもあるんですけどねえ。」
 「美人には釘が厳しいのかしら?」
 
 マンションを経営しているというご婦人を裏口から見送る。いかにも路地裏という小道には昭和臭いおでん屋、商売っ気のない魚屋、おしゃれと名の付く婦人洋品店などが並んでいる。酒屋の店先では年金ぐらしの老人たちがビールケースを椅子にして、太陽の沈まないうちからワンカップを引っ掛けている。僕は心密かに、それを「オープンカフェ」と呼んでいた。

 「ねえねえ、お兄ちゃん、きょうは出てる?」
 「今日はあんまり出てないっぽいんですよ。」
 「お兄ちゃんも大変だろうから、ちょっと打ってってあげるね。」

 旦那がギャンブルでこさえた借金をギャンブルで返した上にマンションまで買ったという信じがたい経歴を持つこのご婦人は、盆も正月も関係なく毎日10万20万というカネを落としていく。珍しく4日ほど来なかったときがあったが、入院していたらしい。とあるアルバイトの子のミスに激昂して、命の次に大事なカネを奪い取るとは何事か、と、僕は彼女の愚痴を1時間近く聞いたこともあった。

 昔の話を懐かしく思い出しているのは、この時代にあって、彼らがどうしているのかが気になったからだ。店の人間とケンカして、会員カードをカウンターのハサミで切り裂いて、翌日からタクシーに乗って別の街のパチンコ屋に毎日通った、などという、どうしてもお金を使いたくて仕方のない、有閑を持て余している老人がいる。閉まってない店があると聞けば、たしかにそこに行くのだろう。それ自体は、もちろん、褒められたことではないが、彼ら彼女らの行動原理は、長らく観察してきた僕には理解できるところがある。僕だって玉で遊ぶ人間だ。パチンコの玉か音符の玉の違いだ。
 そして、その店には、その頃の僕が勤めているかもしれない。極貧のバンドマンが、売れない芸人が、役者志望や漫画家志望、他に働くところのないシングルマザーが、いるかもしれない。買った負けたと一喜一憂する老人たちの世話をして、子供の給食代にしているかもしれない。怖いだろう。この世の中の現状を理解していればいるほど、そうだろう。でも、どうにもならない。世の中の呪詛を静かに受け入れながら、働くしかない。
 
 僕が店を去る前夜、我らが野村沙知代氏と道端でばったり会った。
 「おまえがいなくなったら、あの店、どうなるんやろなあ。」
 と、寂しそうな顔をした。まもなく潰れることになるとは僕も予想していなかった。
 「あたしは口が悪いだけだから、気にするんじゃないよ。」
 それはすでに知っていた。根っからのギャンブラーで気性も荒いが、心の中の奥のほうに乙女心が眠っている、そんな人だ。彼女と会えなくなるのは僕も寂しかった。
 「すみません…。」
 「なにやってんだか知らねえけど、おまえにも人生があるんだろ。頑張れよな。ところでおまえ彼女はいるのか。うちの娘なんか、どうや?」
 
 それだけは丁重にお断りした。

2020年4月14日火曜日

総理動画、そもそもコラボに非ず

 星野源さんの「うちで踊ろう」に安倍総理が乗っかった件。よく燃えてますね。
 とあるジャズ・ピアニスト/作曲家さんによるnoteの記事(『安倍総理の星野源さんコラボは何が問題だったのか / 音楽家からの視点と分析』2020年4月13日)がたいへん良くまとまっていると思います。…が、もう少し単純に、音楽的な話に絞ってみます。

 総理の動画。あれはコラボではないですよね。BGMにしているだけ。

 幸い比較対象がある。岡崎体育と大泉洋。「何もしない」というメソードだけは一緒ですが、まさに雲泥万里、月とスッポン、雪と墨。星野源を上に立てているか、道具に使っているかの違い。星野源の音楽を聴いているか聴いていないかの違い。「耳を使っているか使っていないか」の違い。


 しかも、二人とも「画面にどう映ってるか」がちゃんと計算出来ていますよね。大泉洋に至っては音楽を聴きながら「聴いてない」を演じている。言葉をちょうど邪魔になる部分にかぶせているでしょう。こういうのは直感、センスの問題で、素人が真似しようったってそうそう出来ることじゃない。彼らはそれが出来るから芸能人をやってるんです。こんな高等なテクニックに手を出したらヤケドするのが当たり前。




 では、総理はどうするべきだったのか。正解はこちら。



 場末のカラオケスナックの寒々しいノリでも良いから、タンバリンのひとつでも持っていれば、「だっせ…」とは言われたでしょうけど、少なくともヤケドはしなかった。

 で、40歳過ぎのおっさんとして深く確信することですが、他業種の仕事の難易度に対し想像力の働かない人に仕事のできる人間はひとりもいません。「あ、これ、真似したらあかんやつや」と思えない人に、有能な人間はひとりもいません。

 総理が自分で思いつくとは考えられないので「総理、最近これがナウいんすよ、イケてるんすよ」と進言した勘違い甚だしい取り巻きがいたんでしょう。おそらく岡崎体育や大泉洋のを見て「総理にも出来る!」とか思ったんでしょう。そういう人らに自分の命を預けている現状、生活を握られている現状を考えてみてください。

 「狂ってる」と表現している人いますね。違います。凡庸なだけです。

 総理の動画は控えめに言って死ぬほど不愉快なので、もしも僕が演出家だったら急所めがけて灰皿を投げるくらい不愉快なので、ここにシェアするのは控えておきます。その代わりと言ってはなんですが亀井静香ちゃんの歌をお聴きください。これ、10年ほど前、彼のサイトを開くたびに聴かなきゃいけなかったんです。くっそ下手には違いないんですけど、僕はどうも憎めなくて。


2020年4月12日日曜日

総理の微笑、空白の権力

 米軍の言葉に「Order, Counter-order, and Disorder」というものがあるそうだ。命令を出したあと、それとは反対の命令を出すと、現場は混乱する。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)をめぐる我が国の3月以降の対応は、この言葉に尽きると思う。

 例えば学校の休校。2月27日の新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で全国の小中高校に3月2日から春休みまでの臨時休校を文科省を押し切る形で安倍晋三総理が要請。これが激しい反発を呼ぶとすぐさま「実際に休校するかは学校や地方自治体の判断に任せる」と態度を改めた。もともと休校は自治体の判断に依るのだから、いたずらに現場を混乱させただけだった。
 我々の業界もそうだ。2月26日に総理からこのような要請があった。「多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベント等については、大規模な感染リスクがあることを勘案し、今後2週間は、中止、延期又は規模縮小等の対応を要請することといたします。」これには「全国で一律の自粛要請はせず、地域の感染状況に応じて主催者が判断してほしい(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議・3月19日)」という但し書きが付いている。

 いつも自分たちを応援してくれるお客さんたちの健康が心配には違いない。何の法的根拠も無いことに戸惑いつつも、「個別の補償はしない」という言葉に内心憤りつつも、丸々自腹で赤字を被って、なかには億という単位の金額を失いながらも、様々なジャンルの数多くのアーティストたちが政府の「自粛」の「要請」に大人しく従った。
 その代わり我々は強く要望した。自分たちを応援してくれるお客さんたちとは、つまり、常日頃まじめに社会で働く人々である。彼らを助けるためにも、我々が自粛している間に医療態勢、補償の態勢を整えて欲しい。だが今日もなお、感染拡大の収まる気配もなければ、我々のみならず誰の生活も補償されそうにない。466億円かかった恩賜の布マスクが世帯に2枚ずつ下賜されるのみである。我々の断腸の思いは、ものの見事に無駄にされている。

* * *

 あれから1ヶ月が経ち、遅きに失するとは言えようやく、新型インフル等特措法による緊急事態宣言が4月7日に発令された。僕も総理会見を見ていたが、肝心の内容(感傷的な表現も含めて、ある程度、想像できるものだったから)よりも質疑応答での日経記者とのやりとりに目を疑った。「緊急事態宣言の効力は何時を目処に有効になるのか」という質問に対し「…何時?『何時』ですか?えっと、官報に載った段階かな?」と後ろを向き(動画では聞き取りづらいが、おそらくは)官僚がそれに答えたあとの、少しはにかむように笑った反応にだ。
 日本に生きていれば、あの微笑には見覚えがある。身に覚えもある。
 ご存知ないのか、と思った。緊急事態宣言の有効になるタイミングはすなわち都道府県知事の動き始めるタイミングなのだから、責任者が知らないのは大問題である。が、たとえ知らなくても「正式には官報を掲示する時間ですが、少なくとも今夜中にできるよう対処しています」とでも答えてくれたら驚きはしなかっただろう。しかし総理は笑ったのだ。記者会見の場で。これに驚いた。

 僕はある伝聞を思い出していた。政治評論家の森田実氏が書いていたのを読んだことがあるのみで、詳報されているわけではないから事実かどうかは知らないが、2012年、尖閣諸島問題が浮上した頃、野田佳彦前総理が時の温家宝総理に「日本は今後、外交ではなく軍事で問題を解決するつもりか」と問われ、それに対し、野田前総理は誤魔化すように微笑んだというのである。
 これが仮に事実なら、相手が日本人ならば「考えていない」というメッセージを汲み取れるが、中国人には「考えている」というメッセージにしかなりようがない。以降、両国の関係が悪化の一途を辿ったことを思えば、事実でも不思議ではない。

 ――釈迦が蓮の花をひねり、摩訶迦葉ひとり破顔した。
 どうしても言葉に頼ることのできないコミュニケーションというものは確かにある。音楽の人間はそれを肌身で知っている。今日の日本においてもしばしば言葉は省かれる。ただそれは、拈華微笑のように言葉では伝えられないことを伝えようというのではない。言葉にすることを厭うているだけ。怠慢さというよりも、むしろ「分かって当然だ」と思い込む傲慢さによって。そうしてこの10年間、人々は他人の顔色を窺う動作を「空気を読む」と表現し、あまつさえ美徳にすらしてきた。

 総理の微笑。あれはまさに、空気を読んでいる最中の顔だ。

* * *

 「8割おじさん」こと専門家会議の西浦博教授のインタビューに、彼の主張していた「8割」が「7割から8割」へと表現が変更された経緯が語られている。これは大変合点の行くものだった。いったい誰がどのような根拠で言ったことなのか疑問だったが、要するに誰も、総理すらも、決断していない。なんとなく決まっていったということが良くわかる。

不思議なことに「基本再生産数が2.5として、医療機関や性風俗のことを考えると、80%減でないと2週間で減らない」というシミュレーションの資料を作っていたのですが、私の知らないところで諮問委員会の資料の数値が書き換えられていたのです。

 総理は、おそらく人の意見を聞きすぎる人なのだろう。僕の意図が誤解なく伝わるよう譬え話を付け加えるならば、3.11、東電が福島第一原発からの撤退を打診したとき菅直人元首相は激昂したが、これがもし安倍総理なら、そうですか、と受け入れてしまっただろう。総理の郷里、幕末の長州藩主「そうせい候」こと毛利敬親のような意味で「人の意見を聞きすぎる人」である。
 おそらく、総理は総理なりの善意で、専門家会議の言うことと省庁・財界の言うことの中間を採っているのだろう。あちらを立てればこちらが立たずの道理から、それぞれ相違する意見を聞き、調整するという「民主主義」に則って、まあまあここはこれくらいでと妥協をし、妥協させる。2人や3人の話し合いなら別に良いが、これが一億人の住まう国の単位ともなると、あれもこれもと総花的になり、そもそもの目的がわからなくなっていく。
 みんなの意見を聞き、それぞれの良いところを取り入れて、できる範囲のことをできるだけやっているんだ。総理はそう思っていることだろう。本人の意識のなかに、彼への批判者が言うような「独裁」という意識はまったく無いに違いない。むしろ、戦後日本にもうひとりいる非常時の宰相、菅元首相のほうが、私権を一方的に制限する「独裁的」な決断を下してきたとすら言える。
 まこと空気を読む国にふさわしい宰相の御振る舞い。みんな仲良くゆるふわ危機対応。問題は、それでは多くの人間が死ぬのを免れ得ないという恐ろしい未来のあることだ。

* * *

 後藤田正晴が中曽根康弘擁立に際し「ボロ神輿だからこそ担ぐんだ」と答えたというエピソードがあったと記憶するが、いま官邸の神輿に鎮座ましましているのは巨大な空白ではないのか。ボロですらない。空や無の類である。可愛がってもらえさえすれば自分の意見が難なく通るのだから、部下にとって都合の良い上司だろう。誰にとっても都合の良い空白だからこそ(この場合の「誰にとっても」は反対者も含まれている)防衛省日報問題、森友加計問題、桜を見る会問題と様々な不祥事があってもなお、低きに溜まりきった水のように、政局も動かなかったのではないか。
 13年ほど前、参院選で歴史的な惨敗を喫して所信を表明しながら総辞職した彼がなぜ再び戻ってきたのか、長らく疑問だったが、なかなかどうして議会制民主主義とは確かに社会の写し鏡をトップに据えるものなのかと考えると合点が行く。我々は良いシステムを持っている。先人の知恵に感謝しよう。ただし、この世界的な生死に関わる危機に瀕して、いっそう根深い問題を突きつけられているということでもある。我々で撒いた種は我々で刈り取らねばならないのは道理とは言え、あまりに厳しい現実を直視せねばならないその瞬間が、もう目の前に迫っている。

* * *

 以上、ノンポリを決め込むと作品を利用されるリスクがあるという噂を耳にしたので、僕の作品が利用されることは無いとは思いますけど、念のため、自分の立場を改めて記しておきました。僕は総理が官房長官時代、ヒューザー小嶋進会長の証人喚問で彼の名前が出てきたときから「ないわ」と思い続けてきましたことを付け加えておきます。

2020年3月28日土曜日

宮田文化庁長官メッセージを読んで

 2020年2月29日の総理会見で大規模イベント等の自粛が要請されて以来(何度見ても変な言葉です)ジャンルを問わず中止・延期・無観客開催の文字をSNS上で見かける機会が激増しました。なかには億単位の大変な負債を抱えることになったアーティストもいらっしゃる様子。幸か不幸か、僕は顔の割には地味に活動している作曲家なので、大きなマイナスを抱えることにはなっていませんが、とは言え、早くも5月あたりの本番が流れつつあります。

 先行きの不透明なウイルスとの戦い。悲痛な海外のニュースを読むかたわらで、コロナ対策お肉券だ、お魚券だ、という我が国の呑気な様子に、なかば絶望にも似たガッカリ感を抱く毎日ですが、今日の主題から外れてしまうので、ひとまずここまで。

 宮田亮平文化庁長官から「文化芸術に関わる全ての皆様へ」と題するメッセージが発表されました。本文に日付の記載が無いのはちょっといただけませんが、文化庁公式Twitterの更新によれば2020年3月27日付。以下、引用します。

* * *

 今般の新型コロナウイルス感染症の影響により、全国的な文化イベント等について中止、延期等の検討をお願いして1か月余りが経過しています。感染拡大防止の観点から、関係者の皆様の多大なご協力により、多くのイベントの開催を見送っていただいており、皆様の御対応に心から敬意を表し、また感謝申し上げます。 
 一方で、イベントの中止、延期により、活動の場を失い、辛い思いをされている方も多くいらっしゃると思います。日々、鍛錬を重ね、入念な準備をしてきたものを中止するというのは、いかほどの苦渋の選択であったのか、はかり知れません。また、生活にも大きな影響が出て、文化芸術活動をあきらめざるを得ない方も多数いらっしゃるということも伺っております。 
 芸術家としても生きてきた私の人生を振り返っても、過去に幾度となく、災害などで文化芸術活動の継続が困難となる事態に遭遇しました。一方で、困難に直面した人々に安らぎと勇気を与え、明日への希望を与えてくれたのもまた、文化芸術活動でした。この困難な時こそ、日本が活力を取り戻すために、文化芸術が必要だと信じています。 
 日本の文化芸術の灯を消してはなりません。
 
 この困難を乗り越え、ウイルスに打ち勝つために、文化庁長官として、私が先頭に立って、これまで以上に文化芸術への支援を行っていきたいと考えています。 
 明けない夜はありません! 今こそ私たちの文化の力を信じ、共に前に進みましょう。
文化庁長官 宮田亮平 

* * *

 今のところ、おおむね、火に油を注ぐ結果となっているように見受けられます。
 僕の所感を述べますと、いったい文化庁長官という役職に何が出来るのかというそもそもの問題を感じます。権限が無いし、立場も弱い。それは、文化庁ではなく萩生田文科相の会見によって勃発した国際芸術祭あいちトリエンナーレ補助金問題で明らかになったとおり。(『文化庁、あいちトリエンナーレへの補助金不交付を発表 萩生田・文科相「相談あれば寄り添って対応していた」』HUFFPOST 2019年09月26日)

 とは言え、ドイツのように権限ある文化大臣を今から設けるのは無理ですし、なにより僕はちょっと勘弁願いたい。政治家上がりが文化相に就いた日には毎日『海道東征』みたいなのを聴かされないとも限らない。たまったもんじゃない。

 ただ、宮田長官は宮田長官なりの方法で補助金問題に抵抗していて、2019年10月15日の参院予算委で立憲民主党・福山哲郎委員の質問に対し「補助金不交付を見直す必要はない」と萩生田文科相の意向に沿う発言をしながらも、「私は(不交付を)決裁していない」とギリギリのラインを譲らなかった。(『トリエンナーレ補助金不交付問題 文化庁の歴史 踏みにじる行為』東京新聞2019年10月31日 朝刊)その上、今月に入って(世間が新型コロナウイルスにてんやわんやで忘れているスキを狙って、というのは僕の憶測ですが)全額不交付とした決定を撤回し、一部減額した上で交付する方針を決めました。(『あいちトリエンナーレの補助金、一部交付へ 文化庁が不交付の決定を撤回』HUFFPOST 2020年03月23日)

 おそらく、この23日の記事と合わせて読まないと、長官のメッセージの本当のところは吟味できないものと愚考いたします。

 宮田長官。僕もお会いしたことがありますが、芸術家出身の方なので良くも悪くも役人のニオイがしません。今の政府の一員として相当な気苦労をされているものと想像します。ペコペコと頭を下げながらも、面従腹背で、権限も立場も無いなりに、彼は彼なりに、なんとかしようと思っているだろうと想像します。ゆえに僕は(同情が勝ってしまって)世論の批判に同調できませんが、彼なりの方法が間に合うのかどうか、そこが心配です。

 折しも、毎日40人単位の感染者が発表され、そのうち経路不明が4割を占めるという現状。(『東京都 感染経路不明が4割 「外出は控えて」』NHK 2020年3月27日)借金で苦労したことのある人は複利で乗算されていく恐ろしさを知っているでしょう。そういう単位で、今後、新たな感染者が増えていくだろうことは避けられそうにない。従って、我々に必要な「自粛」の終わりも自然と先に伸びていくに違いありません。それよりなにより我々の命が危ない。そういう理解が必要です。

 安倍昭恵夫人がレストラン敷地内の桜の下で写真を撮っていたというニュースを読み、そこいらの乞食を自分の屋敷に上げ「人類みな兄弟」みたいなことを言いながら優雅な遊びに耽っていた足利義政を思い出しました。そうして日々遊んでいるうちに京都が戦に焼けていくという、応仁の乱。自然発火的で良く分からない戦争というニュアンスも少し似ている気がします。もし今回の新型コロナウイルスとの戦いが日本の歴史に同様の効果をもたらすなら、宗祇のような人が都から逃げて金沢あたりに庭を作ったように、東京の文化一極集中は地方に分散していくんじゃないか。そんな想像をしていますが、今はどうでもいいですね、すみません。

 ともかく、手洗いを忘れずに、生き延びましょう。密集を避けましょう。オクターヴ配置のVI度から5音高位V度密集への連結も、できれば避けてください。

2020年2月6日木曜日

埋まらない温度差~大友直人氏に

 あれは2014年の2月6日だったから、もう6年も経つことになる。

 佐村河内氏ゴーストライター騒動。新垣氏会見の直後に『温度差』という記事を書いて、ここに載せた。約3万ほどのPVがあったので、ずいぶん多くの方に読んでいただいたのだろう。同年3月、私が立ち上げた署名キャンペーンに対する新垣氏のお礼文を載せた際にも同様の反応があった。(以来SNSで署名キャンペーンを見かけることが明らかに多くなったような気がする。)
 実はその1年前、2013年にも、私は『HIROSHIMA』について書いている。私はそもそも他人に興味のない人間なので、肝心のドキュメンタリー番組を知らず、当然、曲も聴いていなかった。その段階での所感である。これも騒動の最中は随分と読まれたようだ。

 件の作品は騒動中に聴いたし、新垣氏本人からは資料の提供も受けた(佐村河内氏には痛いだろうものばかりで、たいへん面白い。)騒動の最中には知りようのなかったことを、今はずいぶん知っている。それらを知った今となっても私は意見を変える必要がなかったので、これらはこのままにしてある。「自称「共犯者」の問いかけたもの : 新垣隆氏・署名サイトの内側から (「佐村河内氏問題」をめぐって)」(音楽現代2014年8月号)にもまとめて書いたとおりである。

 今日の新垣氏がたいへんな活躍をしているのも彼の人望が厚いゆえと思うが(まさか川谷絵音とバンドを組むようになるとまでは想像しなかったけれど、)私も、6年前の今日の日に私が想定した最悪の状態を回避するための幾ばくかの貢献は、できたと思っている。以上、私の立場の表明を前奏として、本題に入る。

* * *

 指揮者・大友直人氏が初の著書『クラシックへの挑戦状』(中央公論新社)を2020年1月20日に出版した。『HIROSHIMA』を東京交響楽団と収録したこともあってか、本書中で佐村河内氏の騒動について触れている。当該部分に特に目新しいことはなく、産経新聞の連載記事『話の肖像画 指揮者・大友直人』(全9回 2019年2月4日~15日)で語られたことと大差ない。
 世間はすでに騒動のことなどすっかり忘れ去った頃とは思うが、私にとっては自分が生活する業界の話に他ならぬゆえ、どうしても看過できない記述をそのままにはしておけない。以下、本書から抜粋された『婦人公論.jp』の記事から引用する。

 私は日ごろから作曲家の有名無名や肩書きやプロフィールにかかわらず、自分の心の琴線に触れるかどうかを基準にさまざまな作品を紹介してきました。(婦人公論.jp 2020年2月4日 )
 私は、自分ははじめから彼の難聴に関してはまったく興味がないことを述べ(後略)(婦人公論.jp 2020年2月4日 )
 その虚像と作品を結びつけて群がってきた多くのメディアにも問題があったことは確かでしょう。私には何の悔いもありませんが、この事件に巻き込まれたことは残念なことでした。(婦人公論.jp 2020年2月4日 ※下線は筆者)

 佐村河内氏は当時、難聴ではなく「全聾」を主張していたはずだが、それはさておき。
 これらを拝するに、氏の主張は(1)良い作品だったから演奏した、(2)佐村河内氏の耳の問題には興味がなかった、(3)騒動はメディアにも問題があった、の3点である。氏の『HIROSHIMA』への評価はひとまず置いておくとしても、例えば事実と相違する以下のような記述を読むに、これをこのまま額面通りに受け取るのは難しい。

 東京初演となったコンサートは先に述べたように長年の定期演奏会として開催している東京芸術劇場シリーズのなかのコンサートです。お客様は基本的に定期会員として普段から私たちのコンサートに通ってくださっている方々でした。このときの演奏直後のお客様の熱狂的な拍手は今思い返しても作品と演奏に対する率直な反応だったと思っています。なぜならばこの時点では作曲者に対する情報はほとんどなく、当日の曲目解説も作曲家紹介も作曲家が難聴であることを殊更強調することもないごく普通の控え目なものだったからです。(婦人公論.jp 2020年2月4日 ※下線は筆者)

 ウェブ上で追えるだけでも、2010年4月4日の公演に前もって触れられた以下のような当時の記事はすぐに見つかる。「作曲家が難聴であることを殊更強調することもないごく普通の控え目なもの」として、ベートーヴェンやフォーレ、スメタナ、あるいは晩年に凄まじい肉体的苦痛に苦しんだ(のに、誰も書かない)ガーシュインやラヴェルなどと同様に読めるものではなかろう。

 ◆4月に東京交響楽団が、佐村河内守氏の交響曲第1番を披露
 ◎佐村河内氏の交響曲第1番は、広島の原爆をテーマにした祈りの音楽
 (前略)佐村河内氏は、被爆二世として広島に生まれ、20代で聴覚異常を発病。35歳の時に、すべての聴覚を失うが、自身の絶対音感を頼りに、その後も作曲を続ける。全聾後には、ゲームソフト「鬼武者」の音楽を手がけるなど、現代音楽だけでなく、ゲーム音楽、映画音楽、テレビ番組のテーマ曲など、幅広い分野で活躍している。重度の神経障害や頭鳴症、耳鳴り発作など、止むことのない肉体的かつ精神的な苦痛と闘いながら、同じように苦しんでいる人々に向けて、日々音楽を紡ぎだしているという。(後略)(Stereo Sound ONLINE 2010年2月23日 ※下線は筆者)

 一般の方の個人のブログをここにシェアすることは控えておくが、それらを拝するに、演奏の前には大友氏によるトークの時間が設けられ、佐村河内氏との出会いが語られたようだ。また、プログラムには音楽評論家・許光俊氏による解説のほかにも、NHKスペシャル『魂の旋律〜音を失った作曲家〜』のディレクター・古賀淳也氏による文章も含まれていたそうである。

 耳の問題について「私は/興味ない」のだとしても、他の人が必ずしもそうであるとは限らない。テレビを観て佐村河内氏を知り、著書『交響曲第一番』(講談社)を読んで涙したような、「基本的に定期会員として普段から私たちのコンサートに通ってくださっている方々」ではないだろうファン層にとっては、特にそうだ。すでに一部のファン層から「伝説」扱いを受けていたらしいことが、一般の方のブログからも見て取れる。彼らに純粋な音楽の聴取は不可能であると言って差し支えないだろう。
 私もすっかり信じ込んでいました。今から思えば誇張表現がありました。そのように仰っても今更誰が咎めよう。それがどうして、自らの主張を述べるにあたり「ごく普通の控え目なものだった」と、わざわざ仰らなくても良いようなことを仰ったのか。実のところ、この騒動の何がどうして問題だったのか、その「何」と「どうして」をご存知でらっしゃるからではないのか。

 あるいは本当に何もご存知なかったのか。別に構わないのだが、そうすると、CD発売から全曲初演、『NHKスペシャル』へと、メディアでの扱われ方やその表現がエスカレートしていったのを、その指揮台の中心にいながら、まったく興味を持たずに済ませたということになる。これは当時のファンたちがあまりに救われない。氏が嫌う、一般の聴衆を見下す姿そのものである。

 氏は2013年2月25日にも日本フィルハーモニー交響楽団とともに「全曲特別演奏会(東京初演)」を行っており、これは2013年4月27日、NHK-Eテレで放映され、日本コロムビアがDVD化している。いくら何でも指揮者が収録を知らないわけがないだろう。佐村河内氏も臨席しているのだから、当然、氏が佐村河内氏と会ったのも一回だけではない。つまり、少なくとも一般の聴衆にとって、氏は、メディアの側にいて佐村河内氏と関わってきた人物という立場にある。「なんとなく違和感を覚えました」と氏は仰るが、その「違和感」を都合よく無視してきたとの謗りは免れまい。

 氏の場合、世間に対して放つべき相応の言葉というものが、もっと他にあるだろうと思う。そうして初めて得られる理解もあるだろうと思う。それを述べたところで、すでに充分な地位を築いてらっしゃる氏に傷がつくこともないに違いない。これらの主張(結局「私は悪くない」としか読めない)のほうが、よほど氏自身を傷つけるものだ。もう少し慎重に言葉を選んでいただきたかったと思う。

* * *

 日本のクラシック音楽の聴衆の間に、極端なオタク的感性を持つ人が増えてしまいました。自分の好き嫌いがはっきりしていて、嫌いなものは認めない。排他的な感性を持つ人を増やしてしまったといえるでしょう。(『日本のクラシックは「オタク」に殺されつつある』PRESIDENT Online 2020年01月29日

 氏の著書では、他の箇所の記述にも反論の声がある。例えば上記のようなものだ。
 我々に日々の糧を恵んでくれる重課金ユーザーを腐すとは何事だ、と思うかたわらで、私はこれを興味深く読んだ。要するに、氏は「一般のお客さん」を呼びたいわけだ。音楽のことなど何も知らないという人にクラシック音楽の裾野を広げ、願わくは彼らが涙するような演奏会を持ちたい。誰も反対しない素晴らしい意見である。『HIROSHIMA』は氏にとって初めての成功体験だっただろう。佐村河内氏に丸め込まれるのも無理はない。

 惜しむらくは、氏が自らの経験を正しく観察しきれていないことだ。
 何かを猛烈に好きになるということ、何かに取り憑かれ熱中するということは、時として何かを強烈に嫌いになる、排他的になるということでもあり得る。何かを絶賛できるということは、別の何かに激怒できるということでもある。そうして宝塚歌劇ファンと劇団四季ファンがお互いを貶しあったりする。そこまで含めて文化の裾野の豊かさというものではないだろうか。
 「ウィーンの人々はそれぞれ自分のベートーヴェンのテンポを持っている」というようなことを書いたのは誰だったか、たしかアルマ・マーラーの本で読んだような気がするが、だからどんなテンポでどのように弾いても必ず文句を言われる街だと。そういう「排他的な感性」としか言いようのない人々にブーイングを受けながら、クラシック音楽は火花を散らし育ってきたのだ。

 どうして佐村河内氏騒動はあれほど大きな騒動となり得たのか。ただ熱心なファンたちだけでは、ああはならない。『HIROSHIMA』には強烈なアンチが猛然と湧いた。熱狂的な拍手を送る人々のかたわらに冷めきった人々があったのである。例えば『「全聾の天才作曲家」佐村河内守は本物か』(新潮45eBooklet)を著した野口剛夫氏のような存在。私はあまり彼の意見に共感しないが(騒動後の彼の意見は特に賛同できない)熱狂的な拍手だけではなかった一つの記録ではある。

 当時のファンたちのブログを読むと、必ずと言って良いほどコメント欄に乱闘の跡がある。騒動の前から相当数のアンチがいたということだ。彼らが冷静に反論すればするほど、結果的にはファンは増える、燃え上がる。この寒暖の差こそ『HIROSHIMA』を大きく育んだものである。

 我々音楽家に与えられた課題は、そうした文化が育つに適した厳しい風土を、部外者がひねり出した「被爆二世・全聾」の6文字なしに作ることにある。そのために、音の上り下りだけで一喜一憂する、狂喜する、激怒する、そういう度し難い「オタク」をたくさん育てることである。もし氏の目にそうした「オタク」が増えていると映るなら、氏の憂慮とは裏腹に、日本のクラシック音楽は1990年以降進歩していると言わねばなるまいが、私の目には、まだまだ足りない。

* * *

 もう長々と書いてきたから、もののついでに。

 ちょうど沖縄にいたときに、「週刊文春」の記者から電話が入り、「来週こういう記事を出すのでコメントをいただきたい」と言われました。私が「おやめになったほうがいいのでは。そんな記事を出して誰が幸せになるんですか」と答えると、「ゴーストライターに書かせたのは問題でしょう」と言う。「そんな作品は山のようにあります。オペラなんか1人では書けませんから。こんなことを大事件だと騒いでいたら、他の分野も含め収拾がつかなくなりますよ」と言うと、記者は「分かりました。大友さんのコメントは出しません」と言って電話を切りました。(『話の肖像画 指揮者・大友直人(60)(8)ネット上で中傷された』産経新聞2019.2.14)

 普段どのような環境でオペラの仕事をなさっているのか、僕は寡聞にして存じ上げませんけれども、台本も、音楽も、果てはチラシの題字まで全部自分ひとりで書いている僕としては正直迷惑で。ついうっかり「名誉毀損で訴えます」って言いたくなるからほんとやめて、こういうの。

2020年1月27日月曜日

美空ひばり、終演

1月25日「クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり」終演しました。

MCというよりレクチャーというか、長々とマニアックな話ばかり致しました。日露戦争だの大正時代の日本文学だのと延々と脱線しまくりました。おかげで夜の部の出演者に控室のドアをノックされる有様。歌の背景の背景あたりをどうしてもお伝えしたかったからこそなんですが、こんな僕の度し難い煩悩をも温かく受け止めてくださるご来場の皆さまに助けられ、良い演奏もできたと思います。

耳慣れた曲のはずなのに、こんなに印象が変わるんですね。そんなご意見を受け取りました。それこそが僕の狙いだったわけで、無事に本懐を遂げたと安堵しました。作品を残すとは、誰も悲しまないように、上手に本人の思い出を消していく作業に他ならない。「美空ひばりの津軽のふるさと」ではなく、ただの、無垢の、「津軽のふるさと」にするということ。逆説的ですが、そうしてはじめて、生前の姿の記憶のない人にも美空ひばりの存在を伝えていくことができるのではないか。

歌人の友人・栗原寛君からは「『津軽のふるさと』というより『ロシアのふるさと』だったよね」との言。歌人はなんでも短い言葉で言えちゃうから油断ならないぜ。


とかなんとか言いながら、売れない演歌歌手のような姿で申し訳ないっす。

* * *

ここでひとつ告知を。

学校法人中部大学創立80周年記念コンサート。サイトには作曲者名の記載がありませんけど、この『中部大学祝典ファンファーレ』というのが、僕の作曲。中部大学春日丘高等学校吹奏楽部の皆さんが演奏してくださるそうです。1分あまりの短い曲ですけど、80年の長きにわたり人材の育成に貢献されてきた学園のために祝典曲を書くというのは、作曲家として、たいへん光栄なことです。貴重な機会を賜りましたこと、関係各位に感謝します。


◎学校法人中部大学創立80周年記念コンサート
【日時】2020年3月1日(日曜日)開場:午後1時30分 開演:午後2時
【会場】日本特殊陶業市民会館フォレストホール(名古屋市中区金山1-5-1)
入場無料(要予約。1月31日まで)

2020年1月20日月曜日

覆水、盆に返らず~AI美空ひばり所感


電気楽器の発明者のほとんどが、初期の自動車デザイナーが馬車を真似たように、十八、十九世紀の楽器を真似ようとした。テレミンが新たな可能性をもたらしたときテレミン奏者がやったのは、甘ったるいヴィブラートをかけて過去の名曲を無理やり弾くことだった。我々は新たな音の体験から遮られたのだ(ジョン・ケージ)

 「NHKスペシャル『AIでよみがえる美空ひばり』(2019年9月29日放映)」で披露された「AI美空ひばり」。紅白歌合戦にも起用され、最近また山下達郎が「一言で申し上げると、冒とく」と発言した(2020年1月19日・スポーツニッポン)ことで話題になっています。
 関係者の皆様におかれましては大変なご苦労だったとは思いますが、いかんせん新曲『あれから』の詞と曲とが美空ひばりの個性に全く合致していないというのが痛恨の極み。これが「夏川りみの新曲」とかだったなら、きっと何の文句もなく祝福される曲になっただろうと思いますけど。「松田聖子還暦記念コンサートの新曲」でも良いかもしれない。

 昭和の頃は「巨人嫌い」「北の湖嫌い」の要領で「美空ひばり嫌い」という年寄りもけっこういましたよね。いたんです。たしかに歌は上手いかも知らんがくだらない、浅い、とかなんとか言って。それだけ彼女は説教臭い歌を歌わなかった。「後の祭り」とギャグを言うためだけの『お祭りマンボ』なんて最たるものじゃないですか。
 昭和12年生まれなら戦争の空気を覚えてないわけがないし、子どもごころに感じたことも当然あるはずだけど、彼女の歌った反戦歌は『一本の鉛筆』ただ一曲のみ。この曲にしたって必要以上にセンチメンタルな台詞を吐かないわけです。


 そんな人がポップス調で説教臭い『川の流れのように』を歌ったものだから、当時は意外性とともに受け入れられたものです。そうしてそのまま死んでしまって30年が経ち、世代交代が進んで、徐々に、平成元年の不死鳥・美空ひばりこそが彼女のイメージとなっていく。社会の持つ記憶力の限界というものを考えますけど、とにかく。『あれから』はいかにもその続編という体に過ぎるというか、秋元康氏のあざとさの部分だけが強調されてしまって、彼の仕事としてもどうなんでしょう。
 いっそ生身の人間じゃないことを悪用して、いつもの秋元康氏が書いているようなものを歌わせたほうが余程面白くなったんじゃないかしら。欅坂46『黒い羊』とか。「全員が納得する そんな答えなんかあるものか」って視聴者みんなドキドキするでしょうね。でも案外、そのほうが意外性を楽しむ生前の彼女の姿に近くなったかもしれない。

 ということで、「AI美空ひばり」開発チームには引き続き「AIちあきなおみ」にも取り組んで頂いて、ぜひともシェーンベルク『月に憑かれたピエロ』を歌わせて欲しいと、僕は個人的に願っています。冒とく批判も避けられるでしょう。ご存命ですし。

* * *

 冒とく、という言葉に引っかかりそうな話題をもうひとつ。
 ベートーヴェンの交響曲第10番をAIに復元させる試み。技術者の皆様方には敬意を表しつつも、そら無理やと思うで、というのが正直なところ。結局、死ぬまでの作品を解析することでしかデータは得られないわけですよね。その前提の時点で無理やで、と。

 なにしろ予想の裏をかくというのがベートーヴェンの真骨頂。
 もう少し具体的に言えば、御大が勝手に設定した俺様ルールを聴衆に一方的に押し付けておきながらそれを逆手にとってフェイントをかまし続けるという根性の曲がり具合。わかりやすい例を挙げれば、弦楽四重奏曲第15番を書いた直後の、天国が見えてきましたのでこれからあの世に行って参りますという作曲家が「Es muss sein!」の一発ギャグとともに第16番を書くという脈絡のなさ。素人にはわかりませんが、そういうの、AIはフォローできるんでしょうか。

 囲碁のAIが上手くいっているのは、盤面の四隅に角があるからでもあるし、置ける石の総量が決まっているからでもある。そのいずれも音楽にはございません。むしろ畳の上に石を置くとか、ポケットの中に忍ばせておいた石を相手に向かって投げつける、というのが、あのおっさんの芸風。

 僕は、こんな発想は生身の人間にはできません!すんませんした!という、果てしなくワケのわからんもんをポンポン出力して頂きたいのですよ。研究のためにしていますという趣旨は理解してますけど、過去の作曲家の焼き直しなんて聴きたくないねん。と、Twitterに書いたところ、こういう返信がありました。

つまり、我々は「作曲できるAI」を作る前に、「どのような条件設定をすれば『面白い音楽が作れるAI』を作れるか」ということを人間自身が学習する必要があるということでしょうか。((c)やれやれ氏)

 まさに、そういうことであります。
 例えば、ブクステフーデとリムスキーコルサコフを勉強しまくったパキスタン人作曲家がメキシコに住み始めて5年後に書いた『エチオピア狂詩曲』とか。そういう種類の大喜利精神を発揮して頂かないと面白くない。せっかくの新しい技術なんだから、遊ばなきゃ。

* * *

 死んだ人にしかできない仕事というのはあります。ただ、彼らが仕事をするのに墓から掘り起こす必要はない。死者に本人性は必要ないのであります。尾籠な例を挙げれば、トイレに行くのが面倒だからピアノの下におまるがあったとか、同じピアノの上にはカビたパンが転がっていたとか(ベートーヴェンのことですが)そういう種類の本人性を求めていないのであります。

 死者その人ではなく、死者が遺した仕事を取捨選択し、そこから本人性をうまく取り除いて後世に智慧を繋いでいくという作業。これはたしかに生きている人間にしかできない。誤認逮捕されるくらい服装の汚い缶詰のゴミに囲まれているおっさん(ベートーヴェンのことですが)なんて同時代の人間にとっては迷惑以外の何者でもないので、これは生者の仕事です。そうして生者が仕事を引き継ぎ続けてきた結果、今がある。
 で、価値のあるものを遺すには、よほど生きている我々の耳が肥えてなきゃいけない。「こんなに面白い曲があったのに埋もれさせやがって、どうしてこっちを大事にしなかった!あいつらの耳はフシアナか!」と50年後の後輩に言われたくないですし、幽霊のようにAIに本人を演じさせるよりも、よほど、保存性に優れたジャンルに移植して新たな命を吹き込むほうが長い寿命を得るのではないか、という発想から、「クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり」という編曲のアイデアが生まれてきたわけです。

 …と、うまく宣伝につながりましたね。

* * *

◎クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり
日時 2020年1月25日(土)
   13時30分開演(12時開場)
会場 アート・カフェ・フレンズ
   http://www.artcafefriends.jp/
   (JR恵比寿駅西口下車徒歩2分)
チャージ 前売¥3,500 当日¥4,000
     ※お飲み物代500円を別途申し受けます。

曲目
 東京キッド(万城目正)
 リンゴ追分(米山正夫)
 みだれ髪(船村徹)
 悲しき口笛(万城目正)
 車屋さん(米山正夫)
 日和下駄(米山正夫)
 花笠道中(米山正夫)
 哀愁波止場(船村徹)
 悲しい酒(古賀政男)
 津軽のふるさと(米山正夫)
  ※新しい編曲の追加を計画しています。

お問い合わせ
 卍プロジェクト 03-6421-1206
 スタジオ・フレッシェ studiofroesche[at]gmail.com

予約は下の「今すぐ購入」ボタンから
 ※チケットの発送はございません。受付でお名前をお申し出ください。
 ※当日はお飲み物代500円を別途ご用意ください。

2020年1月19日日曜日

1月25日「クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり」プログラム

◎クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり
日時 2020年1月25日(土)
   13時30分開演(12時開場)
会場 アート・カフェ・フレンズ
   http://www.artcafefriends.jp/
   (JR恵比寿駅西口下車徒歩2分)
チャージ 前売¥3,500 当日¥4,000
     ※お飲み物代500円を別途申し受けます。

* * *

いよいよ「クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり」も来週に迫ってきました。「メロディを聴けばなんとなくわかるかもしれないと思うんだけど、題名だけだとわからないかも…」という20代の子のご意見を頂戴し、いつまでも若いつもりでいたけどそういえば本人の記憶がある僕は40代だった、と改めて思い出しましたので、ここで当日演奏する曲目をYou Tubeで拾った本人の動画で紹介したいと思います。

合わせて。ヒトコトで「クラシック風」と言っても幅が広うございます。主に僕がどんな風に考えどんな曲を参照しながら編曲したのか…ということを本番で喋ると喋るだけで時間が終わりそうな気がするので、ここに少し書いておきました。とは言え、それら参照にした曲もきっと「へ?」という感じだと思うので、頭半分で読んでいただいて構いません。

* * *


  • 東京キッド
    • 藤浦洸/作詞 万城目正/作曲

  • 悲しき口笛
    • 藤浦洸/作詞 万城目正/作曲

『愛染かつら』の主題曲でもおなじみの作曲家・万城目正ですが、彼はモダニストです。特に、美空ひばりのために書いたこの2曲のメロディはたいへん同時代的です。終戦直後、1950年代前後の音楽として、全き意味において同時代的です。ヒンデミットの和声あたりがしっくりくるんじゃないかしら、と予想を立てたところ、僕の予想を超えるフィット感でした。

  • ひばりの佐渡情話
    • 西沢爽/作詞 船村徹/作曲

  • みだれ髪
    • 星野哲郎/作詞 船村徹/作曲

先年惜しくも亡くなられた船村徹先生。新聞の追悼記事中には生前の彼の言葉がいくつか載っていましたが、そこで語られていた彼の「ライバル」の存在は、揃いも揃ってドイツの作曲家ばかりで、やっぱりね、と僕は思ったのでした。船村徹のメロディは後期ドイツ・ロマン派の王道です。『佐渡情話』は特にR・シュトラウスの『4つの最後の歌 Vier letzte Lieder』を参照にしました。船村徹は彼女のファルセットを愛していただけあってメロディの音域が広く、生身のクラシックの歌手が歌うと大変技巧的な歌曲になります。

  • 車屋さん
    • 米山正夫/作詞・作曲

  • リンゴ追分
    • 小沢不二夫/作詞 米山正夫/作曲

  • 日和下駄
    • 米山正夫/作詞・作曲

  • 花笠道中
    • 米山正夫/作詞・作曲

米山正夫。不思議な作曲家です。メロディだけを取り出してよくよく観察するとロシア・フランスの流れを感じます。ムソルグスキーをサン=サーンスが持ち帰りドビュッシーとラヴェルが続いた感じがまたソビエトに還っていくという感じ。あの感じが戦後アメリカのビッグバンドでオーケストレーションされ、ときには都々逸も混じってくると。ちょっとあり得ない世界観です。

ただ、とある日本の作曲家の伝記を読んでいたところ、戦争中はラジオから『ペトルーシュカ』が流れていたという記述があって。僕の世代ではなかなかイメージがつかみにくいんですが、戦争に突入する前の大正末期~昭和初期の日本は、ちゃんと「同時代」やってるんですよね。そんな時代を呼吸していれば、米山正夫みたいな育ち方をするのも不思議じゃないかもしれません。

『車屋さん』はラヴェルの『5つのギリシャの歌 Cinq Mélodies Populaires Grecques』の第1曲『花嫁の目覚め Chanson de la mariée』を(結ばれる歌の伴奏で結ばれないおっちょこちょいなお嬢さんの歌を歌うのも面白いかと思いまして)、『日和下駄』は初期ショスタコーヴィチの歌曲『クリローフの2つの寓話 Две басни Крылова op.4』の2曲目『ろばとうぐいす Осел и соловей』を特に参照にしました。『花笠道中』はシャブリエ風にまとめてみようと試みたんですが、果たして成功しているのかどうか。

『リンゴ追分』は前回も取り上げましたが、少しアレンジを変えています。今回大変な挑戦をしました。「やっぱりおかしい」と言われたら「ですよね」としか答えようがないんですけど、この時代の歌謡曲の今日における編曲のあり方という問題提起という意味も込めまして。どんな風にしたのかは、当日までのお楽しみです。

  • 哀愁波止場
    • 石本美由起/作詞 船村徹/作曲

この銅鑼の音。完全にマーラー『大地の歌』とは思いませんか。

  • 悲しい酒
    • 石本美由起/作詞 古賀政男/作曲

    • 関沢新一/作詞 古賀政男/作曲

古賀政男のメロディの特徴は跳躍です。「勝つと思うな、思えば」と「負けよ」の間の下行長9度。こんな音程を軽々と書けるのはバッハとウェーベルンくらいです。という連想から、『悲しい酒』はバッハのアリア風にまとめました。意外とうまくいきました。『柔』はレーガー『素朴な歌 Schlichte Weisen op.76』から『53. Das Brüderchen』の和声を借りています。兵隊さんになった!という歌詞の勇ましい感じが合うと思いました。20世紀初頭でいちばんバッハっぽいことをバッハっぽくやった経験のある人、からの連想であります。

どうでもいいことですが「口で言うより手のほうが早い/馬鹿を相手の時じゃない」という歌詞。いつ聴いてもグッと来ます。こんな歌に満ちていた前回のオリンピックが羨ましい。

  • 津軽のふるさと
    • 米山正夫/作詞・作曲

この歌の編曲はクラシック専門インターネットラジオ・ottavaでも取り上げてくださいました。先述の通りロシア・フランスの流れを汲む米山正夫のメロディなので、元祖たる作曲家ムソルグスキーの『小さな星よ、おまえはいずこに Где ты звездочка?』の和声を用いました。この曲を弾くたびに自分のなかの何かが終わるので、練習に困ってます。

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…以上、編曲にあたっては万城目正、船村徹、米山正夫、古賀政男の4名の曲を選びました。みんな大好き『川の流れのように』のような曲は、どうしてもメロディの作り方が違うので、クラシックの技術ではうまく編曲できないのです。(当時も、あの美空ひばりがポップスを歌っている!という、意外性とともに受け入れられたと記憶しています。)子役時代から脂の乗った円熟期に至るまで。古い歌が並びますが、これらの編曲における僕の目標は「美空ひばりを知らない世代に、これらの作品そのものの価値を伝えること」であります。平成生まれの若い方もぜひおいでください。

2020年1月12日日曜日

日本語オペラ「MITSUKO」制作コンペティション所感

 公益財団法人さわかみオペラ芸術振興財団「MITSUKO」プロジェクト実行委員会(委員長:澤上篤人 以下「主催者」)の主催によって、日本語オペラ「MITSUKO」制作コンペティション(賞金1,000万)が行われ、2019年12月、作曲部門第一次選考通過者なしとの発表があった。同業者たちが触れていることもあるし、私も一応はオペラ作家のはしくれを自認しているので、突如として現れた高額コンペティションであるこの件について思ったところを書いてみることにする。

  • コンペティションのあらまし

 作曲部門に先立つ2019年6月、台本部門の選考が行われた。主催者指定のプロットに基づき書かれた74本の応募作(主催者発表)の中から平居宏朗、角直之、相原夕佳、佐佐木頼綱の四氏が選出された。作曲部門の参加者はこれらの台本から一人の作品を選び、アリアを含む二曲を作曲する形式で第一次選考が行われ、53本もしくは57本(と主催者の記述に揺れがある)の応募があった。通過者は台本作家と協働のうえ全編を作曲し、2020年8月頃に演奏会形式による演奏で本選考が行われる予定であったという。
 私も友人から「賞金1,000万だってよ」と応募をそそのかされたりしたので、選出された台本にも目を通してみたのだが(台本が良ければ作曲しない理由はない。私だって遊ぶカネは欲しい)一読して、これは無理筋だ、と感じたのである。確かに我が国ではオペラ台本作家が育っていないという問題が現にある。が、それ以前の問題である。

  • 台本部門最終候補作の問題

 平居宏朗氏の台本には、まず登場人物にある「木花咲耶姫」や「聖母マリア」の名に違和感を抱く。いくらフィクションとはいえ一応は実在した人物をモティーフとしたオペラに、これら信仰の対象を軽々しく持ち出してくるのはいかがなものか。宗教にずさんな日本人の聴衆を相手にするだけならまだしも、「カルメン並みに世界中の人々に愛唱されるオペラ(主催者)」の台本として、これは世界の聴衆の理解を得られるのだろうか。
 人と神なら、神が強くなくては困る。その力学に忠実になると、いったい誰が主役なのか分からない芝居になる。演出も難儀するに違いない。

 角直之氏と相原夕佳氏の台本に共通する弱点は、歌手が歌う時間の長さを想定できていないことにある。例えば、角氏の台本には「払えたまえ清めたまえ」の祝詞が丸のまま引用されているが、これに音楽をつければ6、7分は掛かってしまう。主人公の半生を2時間程度に収めなければならないというのに、まったく関係ないもののためにこれだけの時間を割く必然性はない。ストレートプレイの舞台で演じるにしても散漫になる。
 相原氏の台本は読み物として楽しいし、もしかしたらストレートプレイの舞台にはなるかもしれない。が、オペラにするには半量以上を削る必要がある。流行歌で一向に構わないので、一曲3分のなかにどれくらいの文字数が入るのかを一度数えてから執筆していただきたい。

 最終候補四者のうち、強いて作曲の可能性があると言うなら佐佐木頼綱氏のものとなるのだろうが、氏の作品はオペラではなくミュージカルの台本である。関係ない者たちが歌って踊り、科白劇だけ追えば物語のあらすじが理解できるという作り方はミュージカルのものである。
 『サウンド・オブ・ミュージック』で歌われる『エーデルワイス』は感動的だが、歌の内容が物語と必ずしもリンクしているわけではない。主人公たちのアリアが全てあの感じと言えば伝わるだろうか。物語の本筋を歌わないならオペラの形式を選ばずとも良い。

  • 台本作家だけの責任とは言えない

 四者に共通して言えるのは、詩文を詩文として別個にまとめようとしすぎるあまり、登場人物がみな、まるでリブレットの翻訳でも読むような日本語を話している点だ。刃物を持って激昂している江戸の男が詩文のような台詞を吐くのは、率直に言って、滑稽である。
 また、そうした詩文にスペースが取られた結果、登場人物がみなあらすじを読むように状況を説明している。時には自分の心境さえ説明しているが、それは明らかに過多である。
 第二幕第3場と第4場の間に突然10年の断絶を置くのも理解に苦しむ。聴衆に理解させるのもたいへん難しい。どの台本も、ここが構造上の欠陥となってしまっている。
 第三幕は一転して遺産相続の話になる。それこそ『ジャンニ・スキッキ』ではないが、こうした話題が舞台に乗れば喜劇にしかなりようがないため、最後の最後でドラマとしてのシリアスネスを失う。いったい夫婦の愛を描きたいのか、海外に移住し苦労した日本人の立身出世を描きたいのか、遺産相続のドタバタを描きたいのか、まったく主題が定まらないままだ。

 主催者のサイトにも「メロディー感に乏しく」なったと「反省」している旨の記述があったが、これは台本作家たちの責任ばかりとも言えない。主催者指定のプロットが精査されていないということである。要するに情報を詰め込みすぎているのだ。それらをすべてフォローしようとすれば台本は長くなり、説明も多くなるのは自明である。練り直すこともできないプロットのもとで、応募者たちは隔靴掻痒の憾に苛まれながら執筆したことだろうが、主催者は台本作家と作曲家の協働に任せるということをせず、すべてご破産という形で、同じプロットのまま「第2期」の告知を始めてしまった

  • 日本語オペラの題材として適当なのか

 身も蓋もない話をするが、そもそも「日本語オペラ」の主役としてクーデンホーフ光子は適しているのだろうか。光子その人の人生は想像に余るたいへんなものだし、実在した人物の評伝を元にオペラ化するという発想それ自体も(私の趣味ではないが)理解できるのだが、彼女の苦労の最たるは言語である。そんな彼女の苦労が「日本語オペラ」で描き切れるものだろうか。

 以前、ソプラノ歌手チョン・ウォルソン氏の演じるモノオペラ『ザ・ラストクイーン』を拝見した。日本の皇族として生まれ李王・垠に嫁いだ朝鮮王朝最後の王妃・李方子の物語だ。言語は日本語だけだったが、登場人物が彼女ひとりに限定され、彼女の独白によってドラマが彫塑されていることもあって違和感が無かった。音楽の書法には少々不慣れなものを感じる瞬間があったものの、方子妃の人生は正しく追える形に整えられていた。チョン氏が方子妃役を熱望したその理由も良く伝わり、評伝のオペラ化かくあるべしと思ったのである。

 私が仮にクーデンホーフ光子を題材を選ぶなら、台本の大部分にドイツ語を用いることを躊躇しないだろう(私が充分にドイツ語を扱えるなら、の話だが。)日本での出会いや両親との諍いは必要ないかもしれない。最初は相槌もままならない彼女が徐々に言語を習得し、亡き夫の親族と互角に渡り合えるようになっていく様を詳細に描くほうが、物語は充実するだろう。しかし、当プロジェクトの使用言語が日本語に限定されている以上、オーストリア人たちが親切にも日本語を話してくれるわけであるから、これは描きようがない。

  • 越境ということ

 今日の音楽家が今日に生活し、今日の聴衆から祝福を受けなければならない以上、ましてやその作品で世界に打って出ようと言うなら、当然、ポリティカル・コレクトネスにも気を配るべきはずであるが、クーデンホーフ光子を扱う上で避けて通れない人種差別というセンシティブな問題を今日的なあり方で解いた台本はほとんど見られず、「日本スゴイ系」のドメスティックなまとめ方をしていた。ある程度は台本作家たちの趣味でもあろうが、指定プロットに沿えばそうなるだろうし、こういうものを好んで主催者が選んだということである。
 というのも、主催者が欲しているのは「オペラ」ではなく「日本語オペラ」だからだ。もう少し正確に書けば「世界に絶賛された日本人を描き世界に絶賛される日本語オペラ」(もっと意地悪く言えば「〈日本スゴイ〉と日本人が歌うイタリア・オペラ風日本語オペラ」)である。ある意味、現代日本の世相を反映しているとも言えるが、これは主催者の問題というよりも、もっと根本的な、我が国におけるクラシック音楽の位置そのものという問題に思い至る。つまり、ある種の西洋コンプレックスを強く持つ層に好んで受容されているということ。その跳ねっ返りとして「日本スゴイ系」題材が選ばれることにも私は驚かない。

 越境した人を描いた作品が、その人と同じく越境していく保証はどこにもない。そういう仕事はむしろ架空の存在のほうが適している。主催者が例に挙げている『カルメン』にしても『トゥーランドット』にしても、まったく空想の産物である。まったく空想の人物に人間の愚かさ、悲しさ、滑稽さという鑑賞者自身の問題を代弁させているからこそ越境するのではないか。日本人の空想だってもちろん越境する。それが鑑賞者自身の体験として結びつくなら。ピカチュウは世界の至るところにいて、時には歌にも歌われる(ネッタ・バルジライ『Toy』)。主催者のクーデンホーフ光子に対する思い入れは理解しなくもないが、さて、彼女はいったい鑑賞者の何を代弁してくれるだろうか。

 せっかく一人の作曲家に1,000万払えるだけの元手があるなら、その年に上演された新作日本語オペラの中から主催者が選んだ一作品に100万を贈呈し、これを10年続け、徐々に人々を善導していくほうが、結果的には、主催者本来の目的が成就されるのではないか。審査員にも譜面が読めない人がいるのだろうから(吹奏楽の朝日作曲賞と同様、音源提出の項目にこれ以外の意味はない)、そのほうが審査しやすかろう。どうしてもクーデンホーフ光子の物語が欲しいなら、10年後に、10年間の蓄積のなかで発掘した作曲家に委嘱すれば良いのである。
 もっとも、『トゥーランドット』以降世界中で愛されているオペラは無いと言い切るような主催者なので(この言い草は当のプッチーニに対する侮辱に等しくないか)これも毎年受賞者なしとなるかもしれないが。

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 第3期、第4期と、延々と終わらないコンペティションになるだろうと愚考致しますが、本稿は第2期に参加したい方をお引き止めする目的のものではありません。他人の話にかこつけて自分の話を書いただけのものです。なお、私はすでに(クーデンホーフではなく徳光)光子をオペラに書いているので参加は遠慮申し上げ、今後も粛々とダメ人間や変態性欲ジジイばかり出てくるオペラを書いていく所存です。一口1,000万円の寄付なら随時受け付けております。