2020年3月28日土曜日

宮田文化庁長官メッセージを読んで

 2020年2月29日の総理会見で大規模イベント等の自粛が要請されて以来(何度見ても変な言葉です)ジャンルを問わず中止・延期・無観客開催の文字をSNS上で見かける機会が激増しました。なかには億単位の大変な負債を抱えることになったアーティストもいらっしゃる様子。幸か不幸か、僕は顔の割には地味に活動している作曲家なので、大きなマイナスを抱えることにはなっていませんが、とは言え、早くも5月あたりの本番が流れつつあります。

 先行きの不透明なウイルスとの戦い。悲痛な海外のニュースを読むかたわらで、コロナ対策お肉券だ、お魚券だ、という我が国の呑気な様子に、なかば絶望にも似たガッカリ感を抱く毎日ですが、今日の主題から外れてしまうので、ひとまずここまで。

 宮田亮平文化庁長官から「文化芸術に関わる全ての皆様へ」と題するメッセージが発表されました。本文に日付の記載が無いのはちょっといただけませんが、文化庁公式Twitterの更新によれば2020年3月27日付。以下、引用します。

* * *

 今般の新型コロナウイルス感染症の影響により、全国的な文化イベント等について中止、延期等の検討をお願いして1か月余りが経過しています。感染拡大防止の観点から、関係者の皆様の多大なご協力により、多くのイベントの開催を見送っていただいており、皆様の御対応に心から敬意を表し、また感謝申し上げます。 
 一方で、イベントの中止、延期により、活動の場を失い、辛い思いをされている方も多くいらっしゃると思います。日々、鍛錬を重ね、入念な準備をしてきたものを中止するというのは、いかほどの苦渋の選択であったのか、はかり知れません。また、生活にも大きな影響が出て、文化芸術活動をあきらめざるを得ない方も多数いらっしゃるということも伺っております。 
 芸術家としても生きてきた私の人生を振り返っても、過去に幾度となく、災害などで文化芸術活動の継続が困難となる事態に遭遇しました。一方で、困難に直面した人々に安らぎと勇気を与え、明日への希望を与えてくれたのもまた、文化芸術活動でした。この困難な時こそ、日本が活力を取り戻すために、文化芸術が必要だと信じています。 
 日本の文化芸術の灯を消してはなりません。
 
 この困難を乗り越え、ウイルスに打ち勝つために、文化庁長官として、私が先頭に立って、これまで以上に文化芸術への支援を行っていきたいと考えています。 
 明けない夜はありません! 今こそ私たちの文化の力を信じ、共に前に進みましょう。
文化庁長官 宮田亮平 

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 今のところ、おおむね、火に油を注ぐ結果となっているように見受けられます。
 僕の所感を述べますと、いったい文化庁長官という役職に何が出来るのかというそもそもの問題を感じます。権限が無いし、立場も弱い。それは、文化庁ではなく萩生田文科相の会見によって勃発した国際芸術祭あいちトリエンナーレ補助金問題で明らかになったとおり。(『文化庁、あいちトリエンナーレへの補助金不交付を発表 萩生田・文科相「相談あれば寄り添って対応していた」』HUFFPOST 2019年09月26日)

 とは言え、ドイツのように権限ある文化大臣を今から設けるのは無理ですし、なにより僕はちょっと勘弁願いたい。政治家上がりが文科相に就いた日には毎日『海道東征』みたいなのを聴かされないとも限らない。たまったもんじゃない。

 ただ、宮田長官は宮田長官なりの方法で補助金問題に抵抗していて、2019年10月15日の参院予算委で立憲民主党・福山哲郎委員の質問に対し「補助金不交付を見直す必要はない」と萩生田文科相の意向に沿う発言をしながらも、「私は(不交付を)決裁していない」とギリギリのラインを譲らなかった。(『トリエンナーレ補助金不交付問題 文化庁の歴史 踏みにじる行為』東京新聞2019年10月31日 朝刊)その上、今月に入って(世間が新型コロナウイルスにてんやわんやで忘れているスキを狙って、というのは僕の憶測ですが)全額不交付とした決定を撤回し、一部減額した上で交付する方針を決めました。(『あいちトリエンナーレの補助金、一部交付へ 文化庁が不交付の決定を撤回』HUFFPOST 2020年03月23日)

 おそらく、この23日の記事と合わせて読まないと、長官のメッセージの本当のところは吟味できないものと愚考いたします。

 宮田長官。僕もお会いしたことがありますが、芸術家出身の方なので良くも悪くも役人のニオイがしません。今の政府の一員として相当な気苦労をされているものと想像します。ペコペコと頭を下げながらも、面従腹背で、権限も立場も無いなりに、彼は彼なりに、なんとかしようと思っているだろうと想像します。ゆえに僕は(同情が勝ってしまって)世論の批判に同調できませんが、彼なりの方法が間に合うのかどうか、そこが心配です。

 折しも、毎日40人単位の感染者が発表され、そのうち経路不明が4割を占めるという現状。(『東京都 感染経路不明が4割 「外出は控えて」』NHK 2020年3月27日)借金で苦労したことのある人は複利で乗算されていく恐ろしさを知っているでしょう。そういう単位で、今後、新たな感染者が増えていくだろうことは避けられそうにない。従って、我々に必要な「自粛」の終わりも自然と先に伸びていくに違いありません。それよりなにより我々の命が危ない。そういう理解が必要です。

 安倍昭恵夫人がレストラン敷地内の桜の下で写真を撮っていたというニュースを読み、そこいらの乞食を自分の屋敷に上げ「人類みな兄弟」みたいなことを言いながら優雅な遊びに耽っていた足利義政を思い出しました。そうして日々遊んでいるうちに京都が戦に焼けていくという、応仁の乱。自然発火的で良く分からない戦争というニュアンスも少し似ている気がします。もし今回の新型コロナウイルスとの戦いが日本の歴史に同様の効果をもたらすなら、宗祇のような人が都から逃げて金沢あたりに庭を作ったように、東京の文化一極集中は地方に分散していくんじゃないか。そんな想像をしていますが、今はどうでもいいですね、すみません。

 ともかく、手洗いを忘れずに、生き延びましょう。密集を避けましょう。オクターヴ配置のVI度から5音高位V度密集への連結も、できれば避けてください。

2020年2月6日木曜日

埋まらない温度差~大友直人氏に

 あれは2014年の2月6日だったから、もう6年も経つことになる。

 佐村河内氏ゴーストライター騒動。新垣氏会見の直後に『温度差』という記事を書いて、ここに載せた。約3万ほどのPVがあったので、ずいぶん多くの方に読んでいただいたのだろう。同年3月、私が立ち上げた署名キャンペーンに対する新垣氏のお礼文を載せた際にも同様の反応があった。(以来SNSで署名キャンペーンを見かけることが明らかに多くなったような気がする。)
 実はその1年前、2013年にも、私は『HIROSHIMA』について書いている。私はそもそも他人に興味のない人間なので、肝心のドキュメンタリー番組を知らず、当然、曲も聴いていなかった。その段階での所感である。これも騒動の最中は随分と読まれたようだ。

 件の作品は騒動中に聴いたし、新垣氏本人からは資料の提供も受けた(佐村河内氏には痛いだろうものばかりで、たいへん面白い。)騒動の最中には知りようのなかったことを、今はずいぶん知っている。それらを知った今となっても私は意見を変える必要がなかったので、これらはこのままにしてある。「自称「共犯者」の問いかけたもの : 新垣隆氏・署名サイトの内側から (「佐村河内氏問題」をめぐって)」(音楽現代2014年8月号)にもまとめて書いたとおりである。

 今日の新垣氏がたいへんな活躍をしているのも彼の人望が厚いゆえと思うが(まさか川谷絵音とバンドを組むようになるとまでは想像しなかったけれど、)私も、6年前の今日の日に私が想定した最悪の状態を回避するための幾ばくかの貢献は、できたと思っている。以上、私の立場の表明を前奏として、本題に入る。

* * *

 指揮者・大友直人氏が初の著書『クラシックへの挑戦状』(中央公論新社)を2020年1月20日に出版した。『HIROSHIMA』を東京交響楽団と収録したこともあってか、本書中で佐村河内氏の騒動について触れている。当該部分に特に目新しいことはなく、産経新聞の連載記事『話の肖像画 指揮者・大友直人』(全9回 2019年2月4日~15日)で語られたことと大差ない。
 世間はすでに騒動のことなどすっかり忘れ去った頃とは思うが、私にとっては自分が生活する業界の話に他ならぬゆえ、どうしても看過できない記述をそのままにはしておけない。以下、本書から抜粋された『婦人公論.jp』の記事から引用する。

 私は日ごろから作曲家の有名無名や肩書きやプロフィールにかかわらず、自分の心の琴線に触れるかどうかを基準にさまざまな作品を紹介してきました。(婦人公論.jp 2020年2月4日 )
 私は、自分ははじめから彼の難聴に関してはまったく興味がないことを述べ(後略)(婦人公論.jp 2020年2月4日 )
 その虚像と作品を結びつけて群がってきた多くのメディアにも問題があったことは確かでしょう。私には何の悔いもありませんが、この事件に巻き込まれたことは残念なことでした。(婦人公論.jp 2020年2月4日 ※下線は筆者)

 佐村河内氏は当時、難聴ではなく「全聾」を主張していたはずだが、それはさておき。
 これらを拝するに、氏の主張は(1)良い作品だったから演奏した、(2)佐村河内氏の耳の問題には興味がなかった、(3)騒動はメディアにも問題があった、の3点である。氏の『HIROSHIMA』への評価はひとまず置いておくとしても、例えば事実と相違する以下のような記述を読むに、これをこのまま額面通りに受け取るのは難しい。

 東京初演となったコンサートは先に述べたように長年の定期演奏会として開催している東京芸術劇場シリーズのなかのコンサートです。お客様は基本的に定期会員として普段から私たちのコンサートに通ってくださっている方々でした。このときの演奏直後のお客様の熱狂的な拍手は今思い返しても作品と演奏に対する率直な反応だったと思っています。なぜならばこの時点では作曲者に対する情報はほとんどなく、当日の曲目解説も作曲家紹介も作曲家が難聴であることを殊更強調することもないごく普通の控え目なものだったからです。(婦人公論.jp 2020年2月4日 ※下線は筆者)

 ウェブ上で追えるだけでも、2010年4月4日の公演に前もって触れられた以下のような当時の記事はすぐに見つかる。「作曲家が難聴であることを殊更強調することもないごく普通の控え目なもの」として、ベートーヴェンやフォーレ、スメタナ、あるいは晩年に凄まじい肉体的苦痛に苦しんだ(のに、誰も書かない)ガーシュインやラヴェルなどと同様に読めるものではなかろう。

 ◆4月に東京交響楽団が、佐村河内守氏の交響曲第1番を披露
 ◎佐村河内氏の交響曲第1番は、広島の原爆をテーマにした祈りの音楽
 (前略)佐村河内氏は、被爆二世として広島に生まれ、20代で聴覚異常を発病。35歳の時に、すべての聴覚を失うが、自身の絶対音感を頼りに、その後も作曲を続ける。全聾後には、ゲームソフト「鬼武者」の音楽を手がけるなど、現代音楽だけでなく、ゲーム音楽、映画音楽、テレビ番組のテーマ曲など、幅広い分野で活躍している。重度の神経障害や頭鳴症、耳鳴り発作など、止むことのない肉体的かつ精神的な苦痛と闘いながら、同じように苦しんでいる人々に向けて、日々音楽を紡ぎだしているという。(後略)(Stereo Sound ONLINE 2010年2月23日 ※下線は筆者)

 一般の方の個人のブログをここにシェアすることは控えておくが、それらを拝するに、演奏の前には大友氏によるトークの時間が設けられ、佐村河内氏との出会いが語られたようだ。また、プログラムには音楽評論家・許光俊氏による解説のほかにも、NHKスペシャル『魂の旋律〜音を失った作曲家〜』のディレクター・古賀淳也氏による文章も含まれていたそうである。

 耳の問題について「私は/興味ない」のだとしても、他の人が必ずしもそうであるとは限らない。テレビを観て佐村河内氏を知り、著書『交響曲第一番』(講談社)を読んで涙したような、「基本的に定期会員として普段から私たちのコンサートに通ってくださっている方々」ではないだろうファン層にとっては、特にそうだ。すでに一部のファン層から「伝説」扱いを受けていたらしいことが、一般の方のブログからも見て取れる。彼らに純粋な音楽の聴取は不可能であると言って差し支えないだろう。
 私もすっかり信じ込んでいました。今から思えば誇張表現がありました。そのように仰っても今更誰が咎めよう。それがどうして、自らの主張を述べるにあたり「ごく普通の控え目なものだった」と、わざわざ仰らなくても良いようなことを仰ったのか。実のところ、この騒動の何がどうして問題だったのか、その「何」と「どうして」をご存知でらっしゃるからではないのか。

 あるいは本当に何もご存知なかったのか。別に構わないのだが、そうすると、CD発売から全曲初演、『NHKスペシャル』へと、メディアでの扱われ方やその表現がエスカレートしていったのを、その指揮台の中心にいながら、まったく興味を持たずに済ませたということになる。これは当時のファンたちがあまりに救われない。氏が嫌う、一般の聴衆を見下す姿そのものである。

 氏は2013年2月25日にも日本フィルハーモニー交響楽団とともに「全曲特別演奏会(東京初演)」を行っており、これは2013年4月27日、NHK-Eテレで放映され、日本コロムビアがDVD化している。いくら何でも指揮者が収録を知らないわけがないだろう。佐村河内氏も臨席しているのだから、当然、氏が佐村河内氏と会ったのも一回だけではない。つまり、少なくとも一般の聴衆にとって、氏は、メディアの側にいて佐村河内氏と関わってきた人物という立場にある。「なんとなく違和感を覚えました」と氏は仰るが、その「違和感」を都合よく無視してきたとの謗りは免れまい。

 氏の場合、世間に対して放つべき相応の言葉というものが、もっと他にあるだろうと思う。そうして初めて得られる理解もあるだろうと思う。それを述べたところで、すでに充分な地位を築いてらっしゃる氏に傷がつくこともないに違いない。これらの主張(結局「私は悪くない」としか読めない)のほうが、よほど氏自身を傷つけるものだ。もう少し慎重に言葉を選んでいただきたかったと思う。

* * *

 日本のクラシック音楽の聴衆の間に、極端なオタク的感性を持つ人が増えてしまいました。自分の好き嫌いがはっきりしていて、嫌いなものは認めない。排他的な感性を持つ人を増やしてしまったといえるでしょう。(『日本のクラシックは「オタク」に殺されつつある』PRESIDENT Online 2020年01月29日

 氏の著書では、他の箇所の記述にも反論の声がある。例えば上記のようなものだ。
 我々に日々の糧を恵んでくれる重課金ユーザーを腐すとは何事だ、と思うかたわらで、私はこれを興味深く読んだ。要するに、氏は「一般のお客さん」を呼びたいわけだ。音楽のことなど何も知らないという人にクラシック音楽の裾野を広げ、願わくは彼らが涙するような演奏会を持ちたい。誰も反対しない素晴らしい意見である。『HIROSHIMA』は氏にとって初めての成功体験だっただろう。佐村河内氏に丸め込まれるのも無理はない。

 惜しむらくは、氏が自らの経験を正しく観察しきれていないことだ。
 何かを猛烈に好きになるということ、何かに取り憑かれ熱中するということは、時として何かを強烈に嫌いになる、排他的になるということでもあり得る。何かを絶賛できるということは、別の何かに激怒できるということでもある。そうして宝塚歌劇ファンと劇団四季ファンがお互いを貶しあったりする。そこまで含めて文化の裾野の豊かさというものではないだろうか。
 「ウィーンの人々はそれぞれ自分のベートーヴェンのテンポを持っている」というようなことを書いたのは誰だったか、たしかアルマ・マーラーの本で読んだような気がするが、だからどんなテンポでどのように弾いても必ず文句を言われる街だと。そういう「排他的な感性」としか言いようのない人々にブーイングを受けながら、クラシック音楽は火花を散らし育ってきたのだ。

 どうして佐村河内氏騒動はあれほど大きな騒動となり得たのか。ただ熱心なファンたちだけでは、ああはならない。『HIROSHIMA』には強烈なアンチが猛然と湧いた。熱狂的な拍手を送る人々のかたわらに冷めきった人々があったのである。例えば『「全聾の天才作曲家」佐村河内守は本物か』(新潮45eBooklet)を著した野口剛夫氏のような存在。私はあまり彼の意見に共感しないが(騒動後の彼の意見は特に賛同できない)熱狂的な拍手だけではなかった一つの記録ではある。

 当時のファンたちのブログを読むと、必ずと言って良いほどコメント欄に乱闘の跡がある。騒動の前から相当数のアンチがいたということだ。彼らが冷静に反論すればするほど、結果的にはファンは増える、燃え上がる。この寒暖の差こそ『HIROSHIMA』を大きく育んだものである。

 我々音楽家に与えられた課題は、そうした文化が育つに適した厳しい風土を、部外者がひねり出した「被爆二世・全聾」の6文字なしに作ることにある。そのために、音の上り下りだけで一喜一憂する、狂喜する、激怒する、そういう度し難い「オタク」をたくさん育てることである。もし氏の目にそうした「オタク」が増えていると映るなら、氏の憂慮とは裏腹に、日本のクラシック音楽は1990年以降進歩していると言わねばなるまいが、私の目には、まだまだ足りない。

* * *

 もう長々と書いてきたから、もののついでに。

 ちょうど沖縄にいたときに、「週刊文春」の記者から電話が入り、「来週こういう記事を出すのでコメントをいただきたい」と言われました。私が「おやめになったほうがいいのでは。そんな記事を出して誰が幸せになるんですか」と答えると、「ゴーストライターに書かせたのは問題でしょう」と言う。「そんな作品は山のようにあります。オペラなんか1人では書けませんから。こんなことを大事件だと騒いでいたら、他の分野も含め収拾がつかなくなりますよ」と言うと、記者は「分かりました。大友さんのコメントは出しません」と言って電話を切りました。(『話の肖像画 指揮者・大友直人(60)(8)ネット上で中傷された』産経新聞2019.2.14)

 普段どのような環境でオペラの仕事をなさっているのか、僕は寡聞にして存じ上げませんけれども、台本も、音楽も、果てはチラシの題字まで全部自分ひとりで書いている僕としては正直迷惑で。ついうっかり「名誉毀損で訴えます」って言いたくなるからほんとやめて、こういうの。

2020年1月27日月曜日

美空ひばり、終演

1月25日「クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり」終演しました。

MCというよりレクチャーというか、長々とマニアックな話ばかり致しました。日露戦争だの大正時代の日本文学だのと延々と脱線しまくりました。おかげで夜の部の出演者に控室のドアをノックされる有様。歌の背景の背景あたりをどうしてもお伝えしたかったからこそなんですが、こんな僕の度し難い煩悩をも温かく受け止めてくださるご来場の皆さまに助けられ、良い演奏もできたと思います。

耳慣れた曲のはずなのに、こんなに印象が変わるんですね。そんなご意見を受け取りました。それこそが僕の狙いだったわけで、無事に本懐を遂げたと安堵しました。作品を残すとは、誰も悲しまないように、上手に本人の思い出を消していく作業に他ならない。「美空ひばりの津軽のふるさと」ではなく、ただの、無垢の、「津軽のふるさと」にするということ。逆説的ですが、そうしてはじめて、生前の姿の記憶のない人にも美空ひばりの存在を伝えていくことができるのではないか。

歌人の友人・栗原寛君からは「『津軽のふるさと』というより『ロシアのふるさと』だったよね」との言。歌人はなんでも短い言葉で言えちゃうから油断ならないぜ。


とかなんとか言いながら、売れない演歌歌手のような姿で申し訳ないっす。

* * *

ここでひとつ告知を。

学校法人中部大学創立80周年記念コンサート。サイトには作曲者名の記載がありませんけど、この『中部大学祝典ファンファーレ』というのが、僕の作曲。中部大学春日丘高等学校吹奏楽部の皆さんが演奏してくださるそうです。1分あまりの短い曲ですけど、80年の長きにわたり人材の育成に貢献されてきた学園のために祝典曲を書くというのは、作曲家として、たいへん光栄なことです。貴重な機会を賜りましたこと、関係各位に感謝します。


◎学校法人中部大学創立80周年記念コンサート
【日時】2020年3月1日(日曜日)開場:午後1時30分 開演:午後2時
【会場】日本特殊陶業市民会館フォレストホール(名古屋市中区金山1-5-1)
入場無料(要予約。1月31日まで)

2020年1月20日月曜日

覆水、盆に返らず~AI美空ひばり所感


電気楽器の発明者のほとんどが、初期の自動車デザイナーが馬車を真似たように、十八、十九世紀の楽器を真似ようとした。テレミンが新たな可能性をもたらしたときテレミン奏者がやったのは、甘ったるいヴィブラートをかけて過去の名曲を無理やり弾くことだった。我々は新たな音の体験から遮られたのだ(ジョン・ケージ)

 「NHKスペシャル『AIでよみがえる美空ひばり』(2019年9月29日放映)」で披露された「AI美空ひばり」。紅白歌合戦にも起用され、最近また山下達郎が「一言で申し上げると、冒とく」と発言した(2020年1月19日・スポーツニッポン)ことで話題になっています。
 関係者の皆様におかれましては大変なご苦労だったとは思いますが、いかんせん新曲『あれから』の詞と曲とが美空ひばりの個性に全く合致していないというのが痛恨の極み。これが「夏川りみの新曲」とかだったなら、きっと何の文句もなく祝福される曲になっただろうと思いますけど。「松田聖子還暦記念コンサートの新曲」でも良いかもしれない。

 昭和の頃は「巨人嫌い」「北の湖嫌い」の要領で「美空ひばり嫌い」という年寄りもけっこういましたよね。いたんです。たしかに歌は上手いかも知らんがくだらない、浅い、とかなんとか言って。それだけ彼女は説教臭い歌を歌わなかった。「後の祭り」とギャグを言うためだけの『お祭りマンボ』なんて最たるものじゃないですか。
 昭和12年生まれなら戦争の空気を覚えてないわけがないし、子どもごころに感じたことも当然あるはずだけど、彼女の歌った反戦歌は『一本の鉛筆』ただ一曲のみ。この曲にしたって必要以上にセンチメンタルな台詞を吐かないわけです。


 そんな人がポップス調で説教臭い『川の流れのように』を歌ったものだから、当時は意外性とともに受け入れられたものです。そうしてそのまま死んでしまって30年が経ち、世代交代が進んで、徐々に、平成元年の不死鳥・美空ひばりこそが彼女のイメージとなっていく。社会の持つ記憶力の限界というものを考えますけど、とにかく。『あれから』はいかにもその続編という体に過ぎるというか、秋元康氏のあざとさの部分だけが強調されてしまって、彼の仕事としてもどうなんでしょう。
 いっそ生身の人間じゃないことを悪用して、いつもの秋元康氏が書いているようなものを歌わせたほうが余程面白くなったんじゃないかしら。欅坂46『黒い羊』とか。「全員が納得する そんな答えなんかあるものか」って視聴者みんなドキドキするでしょうね。でも案外、そのほうが意外性を楽しむ生前の彼女の姿に近くなったかもしれない。

 ということで、「AI美空ひばり」開発チームには引き続き「AIちあきなおみ」にも取り組んで頂いて、ぜひともシェーンベルク『月に憑かれたピエロ』を歌わせて欲しいと、僕は個人的に願っています。冒とく批判も避けられるでしょう。ご存命ですし。

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 冒とく、という言葉に引っかかりそうな話題をもうひとつ。
 ベートーヴェンの交響曲第10番をAIに復元させる試み。技術者の皆様方には敬意を表しつつも、そら無理やと思うで、というのが正直なところ。結局、死ぬまでの作品を解析することでしかデータは得られないわけですよね。その前提の時点で無理やで、と。

 なにしろ予想の裏をかくというのがベートーヴェンの真骨頂。
 もう少し具体的に言えば、御大が勝手に設定した俺様ルールを聴衆に一方的に押し付けておきながらそれを逆手にとってフェイントをかまし続けるという根性の曲がり具合。わかりやすい例を挙げれば、弦楽四重奏曲第15番を書いた直後の、天国が見えてきましたのでこれからあの世に行って参りますという作曲家が「Es muss sein!」の一発ギャグとともに第16番を書くという脈絡のなさ。素人にはわかりませんが、そういうの、AIはフォローできるんでしょうか。

 囲碁のAIが上手くいっているのは、盤面の四隅に角があるからでもあるし、置ける石の総量が決まっているからでもある。そのいずれも音楽にはございません。むしろ畳の上に石を置くとか、ポケットの中に忍ばせておいた石を相手に向かって投げつける、というのが、あのおっさんの芸風。

 僕は、こんな発想は生身の人間にはできません!すんませんした!という、果てしなくワケのわからんもんをポンポン出力して頂きたいのですよ。研究のためにしていますという趣旨は理解してますけど、過去の作曲家の焼き直しなんて聴きたくないねん。と、Twitterに書いたところ、こういう返信がありました。

つまり、我々は「作曲できるAI」を作る前に、「どのような条件設定をすれば『面白い音楽が作れるAI』を作れるか」ということを人間自身が学習する必要があるということでしょうか。((c)やれやれ氏)

 まさに、そういうことであります。
 例えば、ブクステフーデとリムスキーコルサコフを勉強しまくったパキスタン人作曲家がメキシコに住み始めて5年後に書いた『エチオピア狂詩曲』とか。そういう種類の大喜利精神を発揮して頂かないと面白くない。せっかくの新しい技術なんだから、遊ばなきゃ。

* * *

 死んだ人にしかできない仕事というのはあります。ただ、彼らが仕事をするのに墓から掘り起こす必要はない。死者に本人性は必要ないのであります。尾籠な例を挙げれば、トイレに行くのが面倒だからピアノの下におまるがあったとか、同じピアノの上にはカビたパンが転がっていたとか(ベートーヴェンのことですが)そういう種類の本人性を求めていないのであります。

 死者その人ではなく、死者が遺した仕事を取捨選択し、そこから本人性をうまく取り除いて後世に智慧を繋いでいくという作業。これはたしかに生きている人間にしかできない。誤認逮捕されるくらい服装の汚い缶詰のゴミに囲まれているおっさん(ベートーヴェンのことですが)なんて同時代の人間にとっては迷惑以外の何者でもないので、これは生者の仕事です。そうして生者が仕事を引き継ぎ続けてきた結果、今がある。
 で、価値のあるものを遺すには、よほど生きている我々の耳が肥えてなきゃいけない。「こんなに面白い曲があったのに埋もれさせやがって、どうしてこっちを大事にしなかった!あいつらの耳はフシアナか!」と50年後の後輩に言われたくないですし、幽霊のようにAIに本人を演じさせるよりも、よほど、保存性に優れたジャンルに移植して新たな命を吹き込むほうが長い寿命を得るのではないか、という発想から、「クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり」という編曲のアイデアが生まれてきたわけです。

 …と、うまく宣伝につながりましたね。

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◎クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり
日時 2020年1月25日(土)
   13時30分開演(12時開場)
会場 アート・カフェ・フレンズ
   http://www.artcafefriends.jp/
   (JR恵比寿駅西口下車徒歩2分)
チャージ 前売¥3,500 当日¥4,000
     ※お飲み物代500円を別途申し受けます。

曲目
 東京キッド(万城目正)
 リンゴ追分(米山正夫)
 みだれ髪(船村徹)
 悲しき口笛(万城目正)
 車屋さん(米山正夫)
 日和下駄(米山正夫)
 花笠道中(米山正夫)
 哀愁波止場(船村徹)
 悲しい酒(古賀政男)
 津軽のふるさと(米山正夫)
  ※新しい編曲の追加を計画しています。

お問い合わせ
 卍プロジェクト 03-6421-1206
 スタジオ・フレッシェ studiofroesche[at]gmail.com

予約は下の「今すぐ購入」ボタンから
 ※チケットの発送はございません。受付でお名前をお申し出ください。
 ※当日はお飲み物代500円を別途ご用意ください。

2020年1月19日日曜日

1月25日「クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり」プログラム

◎クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり
日時 2020年1月25日(土)
   13時30分開演(12時開場)
会場 アート・カフェ・フレンズ
   http://www.artcafefriends.jp/
   (JR恵比寿駅西口下車徒歩2分)
チャージ 前売¥3,500 当日¥4,000
     ※お飲み物代500円を別途申し受けます。

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いよいよ「クラシック風アレンジで聴く 美空ひばり」も来週に迫ってきました。「メロディを聴けばなんとなくわかるかもしれないと思うんだけど、題名だけだとわからないかも…」という20代の子のご意見を頂戴し、いつまでも若いつもりでいたけどそういえば本人の記憶がある僕は40代だった、と改めて思い出しましたので、ここで当日演奏する曲目をYou Tubeで拾った本人の動画で紹介したいと思います。

合わせて。ヒトコトで「クラシック風」と言っても幅が広うございます。主に僕がどんな風に考えどんな曲を参照しながら編曲したのか…ということを本番で喋ると喋るだけで時間が終わりそうな気がするので、ここに少し書いておきました。とは言え、それら参照にした曲もきっと「へ?」という感じだと思うので、頭半分で読んでいただいて構いません。

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  • 東京キッド
    • 藤浦洸/作詞 万城目正/作曲

  • 悲しき口笛
    • 藤浦洸/作詞 万城目正/作曲

『愛染かつら』の主題曲でもおなじみの作曲家・万城目正ですが、彼はモダニストです。特に、美空ひばりのために書いたこの2曲のメロディはたいへん同時代的です。終戦直後、1950年代前後の音楽として、全き意味において同時代的です。ヒンデミットの和声あたりがしっくりくるんじゃないかしら、と予想を立てたところ、僕の予想を超えるフィット感でした。

  • ひばりの佐渡情話
    • 西沢爽/作詞 船村徹/作曲

  • みだれ髪
    • 星野哲郎/作詞 船村徹/作曲

先年惜しくも亡くなられた船村徹先生。新聞の追悼記事中には生前の彼の言葉がいくつか載っていましたが、そこで語られていた彼の「ライバル」の存在は、揃いも揃ってドイツの作曲家ばかりで、やっぱりね、と僕は思ったのでした。船村徹のメロディは後期ドイツ・ロマン派の王道です。『佐渡情話』は特にR・シュトラウスの『4つの最後の歌 Vier letzte Lieder』を参照にしました。船村徹は彼女のファルセットを愛していただけあってメロディの音域が広く、生身のクラシックの歌手が歌うと大変技巧的な歌曲になります。

  • 車屋さん
    • 米山正夫/作詞・作曲

  • リンゴ追分
    • 小沢不二夫/作詞 米山正夫/作曲

  • 日和下駄
    • 米山正夫/作詞・作曲

  • 花笠道中
    • 米山正夫/作詞・作曲

米山正夫。不思議な作曲家です。メロディだけを取り出してよくよく観察するとロシア・フランスの流れを感じます。ムソルグスキーをサン=サーンスが持ち帰りドビュッシーとラヴェルが続いた感じがまたソビエトに還っていくという感じ。あの感じが戦後アメリカのビッグバンドでオーケストレーションされ、ときには都々逸も混じってくると。ちょっとあり得ない世界観です。

ただ、とある日本の作曲家の伝記を読んでいたところ、戦争中はラジオから『ペトルーシュカ』が流れていたという記述があって。僕の世代ではなかなかイメージがつかみにくいんですが、戦争に突入する前の大正末期~昭和初期の日本は、ちゃんと「同時代」やってるんですよね。そんな時代を呼吸していれば、米山正夫みたいな育ち方をするのも不思議じゃないかもしれません。

『車屋さん』はラヴェルの『5つのギリシャの歌 Cinq Mélodies Populaires Grecques』の第1曲『花嫁の目覚め Chanson de la mariée』を(結ばれる歌の伴奏で結ばれないおっちょこちょいなお嬢さんの歌を歌うのも面白いかと思いまして)、『日和下駄』は初期ショスタコーヴィチの歌曲『クリローフの2つの寓話 Две басни Крылова op.4』の2曲目『ろばとうぐいす Осел и соловей』を特に参照にしました。『花笠道中』はシャブリエ風にまとめてみようと試みたんですが、果たして成功しているのかどうか。

『リンゴ追分』は前回も取り上げましたが、少しアレンジを変えています。今回大変な挑戦をしました。「やっぱりおかしい」と言われたら「ですよね」としか答えようがないんですけど、この時代の歌謡曲の今日における編曲のあり方という問題提起という意味も込めまして。どんな風にしたのかは、当日までのお楽しみです。

  • 哀愁波止場
    • 石本美由起/作詞 船村徹/作曲

この銅鑼の音。完全にマーラー『大地の歌』とは思いませんか。

  • 悲しい酒
    • 石本美由起/作詞 古賀政男/作曲

    • 関沢新一/作詞 古賀政男/作曲

古賀政男のメロディの特徴は跳躍です。「勝つと思うな、思えば」と「負けよ」の間の下行長9度。こんな音程を軽々と書けるのはバッハとウェーベルンくらいです。という連想から、『悲しい酒』はバッハのアリア風にまとめました。意外とうまくいきました。『柔』はレーガー『素朴な歌 Schlichte Weisen op.76』から『53. Das Brüderchen』の和声を借りています。兵隊さんになった!という歌詞の勇ましい感じが合うと思いました。20世紀初頭でいちばんバッハっぽいことをバッハっぽくやった経験のある人、からの連想であります。

どうでもいいことですが「口で言うより手のほうが早い/馬鹿を相手の時じゃない」という歌詞。いつ聴いてもグッと来ます。こんな歌に満ちていた前回のオリンピックが羨ましい。

  • 津軽のふるさと
    • 米山正夫/作詞・作曲

この歌の編曲はクラシック専門インターネットラジオ・ottavaでも取り上げてくださいました。先述の通りロシア・フランスの流れを汲む米山正夫のメロディなので、元祖たる作曲家ムソルグスキーの『小さな星よ、おまえはいずこに Где ты звездочка?』の和声を用いました。この曲を弾くたびに自分のなかの何かが終わるので、練習に困ってます。

* * *

…以上、編曲にあたっては万城目正、船村徹、米山正夫、古賀政男の4名の曲を選びました。みんな大好き『川の流れのように』のような曲は、どうしてもメロディの作り方が違うので、クラシックの技術ではうまく編曲できないのです。(当時も、あの美空ひばりがポップスを歌っている!という、意外性とともに受け入れられたと記憶しています。)子役時代から脂の乗った円熟期に至るまで。古い歌が並びますが、これらの編曲における僕の目標は「美空ひばりを知らない世代に、これらの作品そのものの価値を伝えること」であります。平成生まれの若い方もぜひおいでください。

2020年1月12日日曜日

日本語オペラ「MITSUKO」制作コンペティション所感

 公益財団法人さわかみオペラ芸術振興財団「MITSUKO」プロジェクト実行委員会(委員長:澤上篤人 以下「主催者」)の主催によって、日本語オペラ「MITSUKO」制作コンペティション(賞金1,000万)が行われ、2019年12月、作曲部門第一次選考通過者なしとの発表があった。同業者たちが触れていることもあるし、私も一応はオペラ作家のはしくれを自認しているので、突如として現れた高額コンペティションであるこの件について思ったところを書いてみることにする。

  • コンペティションのあらまし

 作曲部門に先立つ2019年6月、台本部門の選考が行われた。主催者指定のプロットに基づき書かれた74本の応募作(主催者発表)の中から平居宏朗、角直之、相原夕佳、佐佐木頼綱の四氏が選出された。作曲部門の参加者はこれらの台本から一人の作品を選び、アリアを含む二曲を作曲する形式で第一次選考が行われ、53本もしくは57本(と主催者の記述に揺れがある)の応募があった。通過者は台本作家と協働のうえ全編を作曲し、2020年8月頃に演奏会形式による演奏で本選考が行われる予定であったという。
 私も友人から「賞金1,000万だってよ」と応募をそそのかされたりしたので、選出された台本にも目を通してみたのだが(台本が良ければ作曲しない理由はない。私だって遊ぶカネは欲しい)一読して、これは無理筋だ、と感じたのである。確かに我が国ではオペラ台本作家が育っていないという問題が現にある。が、それ以前の問題である。

  • 台本部門最終候補作の問題

 平居宏朗氏の台本には、まず登場人物にある「木花咲耶姫」や「聖母マリア」の名に違和感を抱く。いくらフィクションとはいえ一応は実在した人物をモティーフとしたオペラに、これら信仰の対象を軽々しく持ち出してくるのはいかがなものか。宗教にずさんな日本人の聴衆を相手にするだけならまだしも、「カルメン並みに世界中の人々に愛唱されるオペラ(主催者)」の台本として、これは世界の聴衆の理解を得られるのだろうか。
 人と神なら、神が強くなくては困る。その力学に忠実になると、いったい誰が主役なのか分からない芝居になる。演出も難儀するに違いない。

 角直之氏と相原夕佳氏の台本に共通する弱点は、歌手が歌う時間の長さを想定できていないことにある。例えば、角氏の台本には「払えたまえ清めたまえ」の祝詞が丸のまま引用されているが、これに音楽をつければ6、7分は掛かってしまう。主人公の半生を2時間程度に収めなければならないというのに、まったく関係ないもののためにこれだけの時間を割く必然性はない。ストレートプレイの舞台で演じるにしても散漫になる。
 相原氏の台本は読み物として楽しいし、もしかしたらストレートプレイの舞台にはなるかもしれない。が、オペラにするには半量以上を削る必要がある。流行歌で一向に構わないので、一曲3分のなかにどれくらいの文字数が入るのかを一度数えてから執筆していただきたい。

 最終候補四者のうち、強いて作曲の可能性があると言うなら佐佐木頼綱氏のものとなるのだろうが、氏の作品はオペラではなくミュージカルの台本である。関係ない者たちが歌って踊り、科白劇だけ追えば物語のあらすじが理解できるという作り方はミュージカルのものである。
 『サウンド・オブ・ミュージック』で歌われる『エーデルワイス』は感動的だが、歌の内容が物語と必ずしもリンクしているわけではない。主人公たちのアリアが全てあの感じと言えば伝わるだろうか。物語の本筋を歌わないならオペラの形式を選ばずとも良い。

  • 台本作家だけの責任とは言えない

 四者に共通して言えるのは、詩文を詩文として別個にまとめようとしすぎるあまり、登場人物がみな、まるでリブレットの翻訳でも読むような日本語を話している点だ。刃物を持って激昂している江戸の男が詩文のような台詞を吐くのは、率直に言って、滑稽である。
 また、そうした詩文にスペースが取られた結果、登場人物がみなあらすじを読むように状況を説明している。時には自分の心境さえ説明しているが、それは明らかに過多である。
 第二幕第3場と第4場の間に突然10年の断絶を置くのも理解に苦しむ。聴衆に理解させるのもたいへん難しい。どの台本も、ここが構造上の欠陥となってしまっている。
 第三幕は一転して遺産相続の話になる。それこそ『ジャンニ・スキッキ』ではないが、こうした話題が舞台に乗れば喜劇にしかなりようがないため、最後の最後でドラマとしてのシリアスネスを失う。いったい夫婦の愛を描きたいのか、海外に移住し苦労した日本人の立身出世を描きたいのか、遺産相続のドタバタを描きたいのか、まったく主題が定まらないままだ。

 主催者のサイトにも「メロディー感に乏しく」なったと「反省」している旨の記述があったが、これは台本作家たちの責任ばかりとも言えない。主催者指定のプロットが精査されていないということである。要するに情報を詰め込みすぎているのだ。それらをすべてフォローしようとすれば台本は長くなり、説明も多くなるのは自明である。練り直すこともできないプロットのもとで、応募者たちは隔靴掻痒の憾に苛まれながら執筆したことだろうが、主催者は台本作家と作曲家の協働に任せるということをせず、すべてご破産という形で、同じプロットのまま「第2期」の告知を始めてしまった

  • 日本語オペラの題材として適当なのか

 身も蓋もない話をするが、そもそも「日本語オペラ」の主役としてクーデンホーフ光子は適しているのだろうか。光子その人の人生は想像に余るたいへんなものだし、実在した人物の評伝を元にオペラ化するという発想それ自体も(私の趣味ではないが)理解できるのだが、彼女の苦労の最たるは言語である。そんな彼女の苦労が「日本語オペラ」で描き切れるものだろうか。

 以前、ソプラノ歌手チョン・ウォルソン氏の演じるモノオペラ『ザ・ラストクイーン』を拝見した。日本の皇族として生まれ李王・垠に嫁いだ朝鮮王朝最後の王妃・李方子の物語だ。言語は日本語だけだったが、登場人物が彼女ひとりに限定され、彼女の独白によってドラマが彫塑されていることもあって違和感が無かった。音楽の書法には少々不慣れなものを感じる瞬間があったものの、方子妃の人生は正しく追える形に整えられていた。チョン氏が方子妃役を熱望したその理由も良く伝わり、評伝のオペラ化かくあるべしと思ったのである。

 私が仮にクーデンホーフ光子を題材を選ぶなら、台本の大部分にドイツ語を用いることを躊躇しないだろう(私が充分にドイツ語を扱えるなら、の話だが。)日本での出会いや両親との諍いは必要ないかもしれない。最初は相槌もままならない彼女が徐々に言語を習得し、亡き夫の親族と互角に渡り合えるようになっていく様を詳細に描くほうが、物語は充実するだろう。しかし、当プロジェクトの使用言語が日本語に限定されている以上、オーストリア人たちが親切にも日本語を話してくれるわけであるから、これは描きようがない。

  • 越境ということ

 今日の音楽家が今日に生活し、今日の聴衆から祝福を受けなければならない以上、ましてやその作品で世界に打って出ようと言うなら、当然、ポリティカル・コレクトネスにも気を配るべきはずであるが、クーデンホーフ光子を扱う上で避けて通れない人種差別というセンシティブな問題を今日的なあり方で解いた台本はほとんど見られず、「日本スゴイ系」のドメスティックなまとめ方をしていた。ある程度は台本作家たちの趣味でもあろうが、指定プロットに沿えばそうなるだろうし、こういうものを好んで主催者が選んだということである。
 というのも、主催者が欲しているのは「オペラ」ではなく「日本語オペラ」だからだ。もう少し正確に書けば「世界に絶賛された日本人を描き世界に絶賛される日本語オペラ」(もっと意地悪く言えば「〈日本スゴイ〉と日本人が歌うイタリア・オペラ風日本語オペラ」)である。ある意味、現代日本の世相を反映しているとも言えるが、これは主催者の問題というよりも、もっと根本的な、我が国におけるクラシック音楽の位置そのものという問題に思い至る。つまり、ある種の西洋コンプレックスを強く持つ層に好んで受容されているということ。その跳ねっ返りとして「日本スゴイ系」題材が選ばれることにも私は驚かない。

 越境した人を描いた作品が、その人と同じく越境していく保証はどこにもない。そういう仕事はむしろ架空の存在のほうが適している。主催者が例に挙げている『カルメン』にしても『トゥーランドット』にしても、まったく空想の産物である。まったく空想の人物に人間の愚かさ、悲しさ、滑稽さという鑑賞者自身の問題を代弁させているからこそ越境するのではないか。日本人の空想だってもちろん越境する。それが鑑賞者自身の体験として結びつくなら。ピカチュウは世界の至るところにいて、時には歌にも歌われる(ネッタ・バルジライ『Toy』)。主催者のクーデンホーフ光子に対する思い入れは理解しなくもないが、さて、彼女はいったい鑑賞者の何を代弁してくれるだろうか。

 せっかく一人の作曲家に1,000万払えるだけの元手があるなら、その年に上演された新作日本語オペラの中から主催者が選んだ一作品に100万を贈呈し、これを10年続け、徐々に人々を善導していくほうが、結果的には、主催者本来の目的が成就されるのではないか。審査員にも譜面が読めない人がいるのだろうから(吹奏楽の朝日作曲賞と同様、音源提出の項目にこれ以外の意味はない)、そのほうが審査しやすかろう。どうしてもクーデンホーフ光子の物語が欲しいなら、10年後に、10年間の蓄積のなかで発掘した作曲家に委嘱すれば良いのである。
 もっとも、『トゥーランドット』以降世界中で愛されているオペラは無いと言い切るような主催者なので(この言い草は当のプッチーニに対する侮辱に等しくないか)これも毎年受賞者なしとなるかもしれないが。

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 第3期、第4期と、延々と終わらないコンペティションになるだろうと愚考致しますが、本稿は第2期に参加したい方をお引き止めする目的のものではありません。他人の話にかこつけて自分の話を書いただけのものです。なお、私はすでに(クーデンホーフではなく徳光)光子をオペラに書いているので参加は遠慮申し上げ、今後も粛々とダメ人間や変態性欲ジジイばかり出てくるオペラを書いていく所存です。一口1,000万円の寄付なら随時受け付けております。