2017年2月25日土曜日

音楽の冗談、の常談(2)I. Allegro

「当たり前のことが当たり前のように響く」とモーツァルトを形容する人がいる。それだけ自然で、なめらかな音楽だ。ただ、彼を讃える言葉として「当たり前」が妥当と言えるのかどうか、少し立ち止まって考えたい。

 『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』はシンプルなI度からV度の連結から始まるが、冒頭四小節間は思い切ったユニゾンで書かれている。和声は分散され、リズムが付けられ、I度は上行、V度は下行と性格も分けらる。5小節目からの保続音に乗って「ソファファ」「ラソソ」という上声の特徴的な倚音、トリル、ヴィオラの「ラドファラ」という内声、10小節目はI度の一転で、ふわりと終止する。
 一方の『冗談』もシンプルなI度からV度の連結から始まるが、和声の教科書がおっしゃるとおりの定形に配置され、1小節目でI度を3回鳴らし、2小節目でV度を3回鳴らす。わかりやすいと言えばこれ以上にわかりやすい連結はなく、「当たり前」といえばこれ以上に「当たり前」の表現方法はない。
 両者をもう一度比べよう。かたや彫琢されつくした美。かたや、原材料。
 彼はこの頃、すでに、ラモーが道すじを示した機能和声の方法論から遠く飛躍しており、後の時代にワーグナーが突き詰めることになる瞬間移動の術を手にしていた。他ならぬワーグナーその人が、モーツァルトのバトンを受け継ぎ、彼なりの方法でそれを展開させたのだ。あまり印象にはないかもしれないが、すでに時代遅れのものと認識されていた時代にあって、ワーグナーは熱烈にモーツァルトを愛していた。「当たり前」を嫌うあの人が、「当たり前」を愛するだろうか。



 普段からルールの「先の先」のところで書いているモーツァルトは、『冗談』ではかえってルールを強く意識している。普段の正反対を書くのだから、座標が必要だ。
 少々単純に、ではあるが、縦の軸を理論的な正しさ、横の軸をリズムや修飾の豊かさとして図にした。言うまでもなく、理論的に整合性がとれ、非和声音でほどよく修飾され、リズムが豊富にある洗練された音楽が、彼の「本来の創作」である。彼が採れる方法は、理論的に間違った音を書くか、修飾やリズムの足りない音を書くかのいずれかだ。冒頭2小節のI度からV度の連結は、間違ってはいないが単純すぎるもので、この図では「粗野なリズム」にあたる。12小節目、第一ヴァイオリンに現れる「シ」は、本来ならば「ド」への倚音になるはずだが、「ソ・シ・レ」のドッペルドミナントが与えられ、和声音になってしまっている。これは「間違った和声」だ。両者はもちろん両立も可能で、なにもかもダメにすることができる。10小節目にあるヴィオラの「主音に向かわない導音」などは、それにあたる。

 第一楽章は、主題こそ7小節とイレギュラーだが、それを除けば不可思議な小節構造は登場しない。むしろ登場しなさすぎる。お決まりのような4小節、2小節を過ぎれば、よいしょと句読点を打ち、あからさまな形で次のアイデアに移行する。「つなぎ」がなく、すべての素材の尻が切れている。部分と部分の断絶が象徴的に耳に残る。「粗野なリズム」に体重を乗せながら、「間違った和声」を書いている。「本来の創作」が汚れぬように、注意深く。

 さて、前もって触れておいたとおり、「主音に向かわない導音」であるとか、「I度の第3音に向かわない属七の第7音」であるとか、その手の類の冗談は、この先一度も現れない。第一楽章のみならず、後続するすべての楽章に現れない。

 その意味を考えるために、もうひとつ、別の例を挙げたい。
 12~13小節目のドッペルドミナントからI度への連結は、普通はしないという大前提を脇に置けば、必ず連続5度を生じる。「並行和音」と言えるものだ。ただし、第二ヴァイオリンの書き方を見ると、12小節目では表拍にあった第5音が、13小節目では裏に隠れる。たいへん言い訳がましい応急処置ではあるけれども、かろうじて連続を避けようという意思が、まだここには見える。



 ところが、その事情が変わるのは、展開部に入ってからの45小節目。「シ♭・レ・ファ」で主調のIV度になるが、第一ヴァイオリンに「ミ♭」が現れる。主題の3小節目の音型を模したものだが、ヘ長調の「ミ」にはもちろん、フラットはつかない。旋法的とも言えるし、IV度調からの借用とも言えるが、「連続する3度を置いただけのもの」と表現するのが、もっともふさわしいだろう。
 そうして、45小節目からIV度~V度の連結をそのまま二回繰り返す。機能は与えられていないからコードネームでB♭(M7)~Cと表記するほうが良いかもしれない。先ほどのような言い訳も、応急処置もしなくなる。開き直って「並行和音」を置く書き方に変化していく。

 このような書き方は78小節目のコーダからさらに大きく扱われ、後続楽章ではそれが主要な素材にもなり、発展すらしていくけれども、この箇所の前には見られない。
 さすがのモーツァルトといえども、普段と違うスタイルの音符は書き慣れていない。「間違った和声」など、なおさら書いたことがない。自分で書いた自分の進行をまじまじと見つめる彼にとって、「主音に向かわない導音」は、もはや不要なものになった。仮にヴィオラが正しく主音に進行をしていたとしても、それに応じて響きは少々変わるだろうが、10小節目のおかしさがすっかりすべて解消され、洗練された音楽になったりはしない。冗談としては非常に地味でわかりにくい。「間違った和声」をそれだとすぐにわからせるには、書かなくても良いものだ。
 わたしたちはいま、「作品の途中で考え方を変えるモーツァルト」に出会っている。普段は絶対に見せてくれない、すっぴんの顔だ。

 これとはまったく別の理由で、わたしたちには特にわかりにくくなってしまった冗談がある。88小節目に付けられた繰り返し記号だ。ハイドン、モーツァルト時代のソナタ楽章の後半部分は繰り返し記号が付けられているのが通例で、この曲にも付けられているが、これを省略して演奏するのが今日の慣例となっている。
 これは、後の時代の考え方が大きく作用している。
 提示部、展開部、再現部の名が振られているとおり、今日的な音楽教育を受けた者はソナタ楽章を三部形式の楽曲と捉えていることと思うが、本来は二部形式の楽曲だったと言うべきだ。二つの素材が提示される前半部分と、その素材が変奏される後半部分。同等の規模が前提ゆえ、どちらも繰り返される。技巧的なパッセージが含まれ後半部分が拡大されているような曲(Kv.334『ディヴェルティメント』など)では、彼らも繰り返し記号をつけていない。
 二つの素材=主題の性格を明確に分け、ブリッジだったものを展開部として大きく扱うようになったのはベートーヴェン以降、ロマン派以降の考え方である。
 全音楽譜出版社編『ベートーベン ソナタアルバム』に掲載されている諸井三郎の分析を読むと、彼は初期の作品の展開部の短さを個性の未発達として捉えているふしがある。「展開部が小さいという特徴」「展開に対する技術的な弱さ」などという表現が、それだ。後期から逆算すればそう言えなくもないが、ハイドンやモーツァルトから逸脱していった後の成果を初期に当てはめるのは、海で捕れる魚を川の上流に求めるようなもので、少々無理がある。その「ロマン派以降の考え方」をドイツに渡って学んだからこそとは思うが、我が国の偉大な先達であっても、この意見には同意しがたい。
 それよりも、あのいつまでたっても終わらないしつこい作家が、ブリッジだったはずのものを延々と書き続けてしまった結果、二部形式には収まらなくなった。と考えるほうが、後々のベートーヴェンを捉えやすい。後の時代の終わらない作家マーラーは、『交響曲第三番』などを聴く限り、ソナタ形式をはっきりと三部形式で捉えているようだ。なお、マーラーはベートーヴェンの展開部を「必ず新しい素材が現れる」ものであるとして、苦言を呈している。
 近代以降には、二つ主題の提示と再現をシンメトリカルに対置したソナタ楽章も、ヒンデミット(『ヴィオラ・ソナタ』1939年)やストラヴィンスキー(『ハ調の交響曲』)などによって書かれることになる。彼らの展開部はコンパクトで、展開部というより中間部と呼ぶほうがいっそうふさわしく、形式的には先祖返りしている感もある。


 『冗談』に帰ろう。
 今日の慣例に則って88小節目で終わらせてしまうと、わたしたちはモーツァルトの意図した冗談をひとつ失ってしまうことになる。ここはもちろん、33小節目に返るべきだ。33小節目に返るのをすっかり忘れておりました、という体で、返るべきだ。いかにも「この先にはなにもありません」というふうにリズムを刻みつけているホルンが健忘症的で、いっそうおかしい。しかもバスを見ればヘ長調I度「ファ」からハ長調V度一転「シ」への減5度下降。なかなか強烈な響きがする。
 忘れていた、といえば、第二主題では旋律を歌うはずの人が、それを忘れている。バスはバス、ヴィオラは突飛なトリル、第二ヴァイオリンは内声、第一ヴァイオリンはアルベルティ・バスでお馴染みの分散和音。再現部でにわかに犯人がわかる。どうやらヴィオラ氏だ。


 彼はかなり意識的に、自分の持つ美の規準、座標を頼りに書いているのが見てとれる。普段と違うことをするのに専心しているのが、この楽章での彼の姿だ。
 そうした作業を続けるなかで、「主音に向かわない導音」のような効果の薄い冗談は切り捨てられ、いっそうおかしなもの、いっそう悪いものを拾い、それを使って組み立てていくようになる。
 揶揄が目的だったなら、そんな些末な目的など、彼はとっくに忘れているのだ。(つづく)

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