2017年1月18日水曜日

演奏家のための和声のはなし(3)禁則

 和声の初学者をうんざりさせるのは、何と言っても禁則の数々だ。
 連続5度・8度の禁止、テノールが短2度、バスが完全4度上行する場合以外の並達1度の禁止。作曲科志望の受験生ならば、そういうものだと諦めて渋々覚えもするが、そういう心の準備のないまま講義を受ける演奏の学生の場合、どうしてそれがいけないのかが説明されないまま、どうにも腑に落ちないまま、ドビュッシー『ベルガマスク組曲』メヌエットの冒頭をさする。

 中田喜直『実用和声学―旋律に美しい和音をつけるために』(音楽之友社)に、ピアノの場合これらを禁則とする意味はない、という旨の記述がある。忌憚なく言えば、少々誤解を招く表現だ。というのも、ピアノの場合、オクターヴや5度を重ねるのは和声というより楽器法に関する話題と言うべきであって、これを連続と言ってしまったら、8×8フィートで演奏するときのチェンバロはすべて連続1度に、ストップ全開のオルガンはすべて連続5度になってしまう。ナンセンスである。ピアノという楽器にはそういう機構がないので、書くよりほかないだけだ。

 そもそも和声の学習は合唱で実施する。どんなに簡単な課題であっても、五線紙の向こう側に20人や30人という男女がいるのを想定しなければならない。ソプラノの声色、アルトの声色、テノールやバスの声色、すべて個性の違う声色があることを注意深く聴かなければならない。その意味で、和声学習の目的は、対位法や管弦楽法の目的と一にしている。

 「線を使って空間を生む」という発想から「空間から線を生みだす」という発想に大転換を遂げたのがラモーの頃だった。ちょうど良くピアノという楽器も成立し、この楽器の急速な発展とともに、和声法は作曲家たちの「空間」というものの考え方を力強く後押しした。そのようにして発想の転換はあったが、しかし線が不要だなどとは誰も言ってない。線は重要なのである。
 それぞれのパートをできるだけ異なる発想で書く、異なる線を書く、多元的で豊かな内容を持つものにするという時代的な要請のもとに連続1・8、5度の「禁則」がある。(連続する空虚5度の響きは古くて抹香臭いものだ。それを19世紀末のフランス人が「逆に新しい」と感じるようになったのである。)もしかすると「禁則」という言い方が良くないかもしれない。「しばり」や「お題」とでも言ったほうが現代人にはしっくりくるかもしれない。

 ドビュッシー『ベルガマスク組曲』メヌエットの冒頭が、もしも左の譜例のように書かれていたとしたら、その響きにどのような違いが現れるのだろうか。弾ける人は弾き比べて観察しよう。

 主題の歌い出し「ラシドレ」が空虚5度で装飾されているのは楽器法の話題であると見る。しかし、むしろ演奏家にとって大事なのは、この「ラシドレ」、3小節目の「ミファソラ」、5小節目の「ソファソファミ」、これらをすべて違う声部として歌えるかどうか。テノールからアルトへ、ソプラノへ、そういう受け渡しと思えるかどうか。4小節目の内声「シードシードレーミ」と、上で「ソラソーラシードソー」と歌っている人とはまったくの別人だという発想を持てるかどうか。声部の分離、独立、豊かさ。ピアニストに即して言えば、和声学習の成果はそのような部分に現れる。

 もっとも「ラシドレ」は線に見えないかもしれない。線というより「帯」に見えるかもしれない。和声が発展したことによって「空間」も線として用いることができるようになった。という、その「帯」や「空間」の、ドビュッシーよりもう少しわかりやすい実例をシューベルトのop90-3に見てみよう。この冒頭4小節は3声体で書かれていると言って構わない。高度10,000kmを離れ宇宙と接しているメロディと、我々が暮らす地表の左手、その中間の分厚い大気の層が「シレソレシレシレソレシ」と帯状になった内声…というのは少し大げさな比喩かもしれないが、このような「帯」は、バロック時代にはない考え方だ。
 バッハのこのような筆も、あくまで「線」として書かれている。3小節目や5小節目は「シ」の保続に対し「ミファソラソファミ」の線がある。もはや「帯」のようにも見えはするが、線から空間を作っているのであって、空間から線の順ではない。バッハの無伴奏はsoloやallein(独奏)ではなく、senza basso(低音のない)と題されていることにも注意したい。

 機能は和音そのものではなく低音や根音にあると前回書いた。人間の耳の可聴音域の狭さで受け取れる範囲にどれだけの倍音が含まれるか、という意味において、低い音のほうに情報が多く含まれるのは当然のことといえる。少々安直な例を出すが、もし高音と低音とが人間の耳にとって対等の関係にあるのならショパン『子犬のワルツ』の最後は成立しない。とは言え、あまり単純にそれらを定義するのも差し控えたい。低音を全て規定しなくても音楽が成立しうることは先のバッハの例が教えてくれる。その方法にはバッハ以降の展開もある。モーツァルトは晩年に「幽霊との四重奏」というべき弦楽三重奏を書いている。

 ベートーヴェンの場合、書かない低音を聴衆に想像させる書き方をあまり好まなかったようであるのは、彼のop.3やop.9の弦楽三重奏で察することができる。音楽にいっそうの具体性を望んだのだろうが、4人分の仕事を3人で回すため、急に休んだバイト君の尻拭いをするヴィオラ氏が忙しい。中期に差し掛かると要領がよくなる。ソナタop.31-2『テンペスト』はニ短調の属和音「ラ・ド♯・ミ」の1転からはじまる。これがもし基本形だったとしたら、どう頑張ってもイ長調の曲が始まるしかない。「ド♯」の第5倍音「ミ♯」は、当然、構成音「ミ」と馴染まない。短調の不穏な空気をたったこれだけで表現できるようになる。

 V度の保続音の上では、何が起きていようとも音楽はドミナントにあることを、バッハのオルガン曲BWV540で観察しよう。30小節もV度保続音を持続させ、ずいぶんと派手に散らかしている。しかも主和音「ファ・ラ・ド」ではなく、−II度調属七「レ♭・ファ・ラ♭・ド♭」の3転へ抜けるという大胆さが、憎い。
 主和音「ファ・ラ・ド」から見て、「レ♭・ファ・ラ♭」は準VI度(同主調・へ短調のVI度)にあたるから、これは偽終止の応用と言えるのだが、半音下降した「ド♭」を低音とするここの場合、いったい何が機能しているのだろう。属七の導音「ミ」から主音「ファ」へ、という、たった1本の線を頼りにした綱渡りと言ったほうが良さそうだ。

 言葉が道具である以上、文法もまた道具の一部である。ドアの蝶番のようなものだ。けれども、それが逆に取り付けられてしまったら、ドアは開かない。仏語の文法で形容詞が並べられた日本語文は不自然だ。どんな規則に従うかを問われたドビュッシーは「自分の喜びに従う」と答えたといい、今日の不協和音は明日の協和音とも語ったが、ドアノブのほうに蝶番を取り付けるような真似をしたわけではない。たった1本のネジであっても、ちょうど良く力のかかる場所に取り付ければ、すべてが機能する。作曲家にとって、和声や対位法はルールではなくツールとして、あるのだ。(続く)

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