2017年8月24日木曜日

谷崎潤一郎原作「卍」オペラ化、11月初演

 この度、谷崎潤一郎の傑作として名高い小説「卍」を、西澤健一・作曲によりオペラ化し、11月17日(金)豊洲シビックホールにて初演いたします。出演は、妖艶な美貌を誇る羅紗問屋の娘、徳光光子役に新宮由理(メゾ・ソプラノ)。光子と禁断の関係に落ちる若妻、柿内園子役に津山恵(ソプラノ)。最終的には光子の誘惑に掠め取られてしまう園子の夫、柿内孝太郎役に横山慎吾(テノール)。この3人を破滅に追いやる光子の異性の愛人、綿貫栄次郎役に岡元敦司(バリトン)。ぜひ皆様にもご来場、ご高評いただきたく、以下のとおりご案内申し上げます。

* * *

人を愛することの尊さと愚かしさ、
忠実であり続けることの厳しさと美しさ…
昭和初期の大阪を舞台に、四人の男女が織りなす人間模様。

原作・谷崎潤一郎 オペラ「卍」全三幕


 ストーリー


 弁護士の夫・孝太郎に不満のある妻・園子は、美術学校で出会った美しい羅紗問屋の娘・光子と禁断の関係に落ちる。しかし光子は、一方で異性の愛人・綿貫と関係を断つことが出来ずにいた。綿貫の嫉妬と策謀に翻弄される二人は狂言心中を図るが、妖艶で奔放な光子は孝太郎をも誘惑する。独占欲と猜疑心に苦しむ夫婦は、やがて光子に身も心も支配されていき――四人の男女が織りなす愛憎と破滅を描いた谷崎世界、オペラ化(全三幕)


 ごあいさつ 西澤健一


 谷崎の描いた物語は、根源的であるがゆえに今日的なテーマを持っています。厳しく真面目な芸術作品であると同時に極上のエンターテインメントでもあります。非常にオペラ的な素材であるとかねてより思い続けてきました。私はこの狂おしい恋の物語に十年来恋い焦がれてきたのです。今回、谷崎の残した美しい言葉の数々を音楽化できること、それを強力な音楽仲間たちとともに、ここにお披露目することができるのは大変なよろこびです。蛮勇と分かっていても恋をしなければ生きていけない皆さまに…これからする予定の皆さまにも…是非ご覧いただきたく思います。

* * *

オペラ「卍」全3幕

作曲・西澤健一
原作・谷崎潤一郎

キャスト
徳光光子・新宮由理
柿内園子・津山恵
柿内考太郎・横山慎吾
綿貫栄次郎・岡元敦司

演奏・室内アンサンブル・ラボ
 薄田真希(フルート)
 石井由紀(オーボエ)
 木原亜土(クラリネット)
 木原英土(ホルン)
 三ツ木摩理(ヴァイオリン)
 佐藤茜(ヴァイオリン)
 力久峰子(ヴィオラ)
 榊原糸野(チェロ)
 米丸咲季子(ピアノ)
指揮・西澤健一

2017年11月17日(金)19時開演
豊洲シビックホール

チケット全自由席
前売り 4500円
当日券 5000円

チケットお申し込み・お問い合わせ
gruppobrillante@yahoo.co.jp
03 6421 1206 (スタジオ・フレッシェ)

※追記(2017/11/01)
演出の原純は一身上の都合により降板しました。



2017年6月23日金曜日

練習しなくてもピアノが上手くなる音楽理論教室

 駅の自動アナウンスに、時おりこんなものを聞きます。

 …まもなく さん っばんせんに きゅうこう みなみくりはし いきのでんしゃが じゅう↓ っりょうへんせいで まいります きいろいせんのうちがわにさがって おまちください まもなく…

 「さん」や「みなみくりはし」や「じゅう」などの取り替えが利くように収録したんでしょうけど、「じゅ→う↑」ではなく「じゅう↓」と、「十」だけを取り出して聴けば正しく発音してしまっているのが災いして、前後がつながっていない例です。

2017年6月11日日曜日

ブルグミュラー・デスマッチ!

  2015年の年末ごろ、ふとした思いつきで編曲し、FacebookやTwitterで楽譜や動画をお披露目していたら数多くのピアノ弾きの皆々様からお問い合わせを頂きました「大人用ブルグミュラー」。この度、『ブルグミュラー・デスマッチ!』と改題して、芸術現代社より出版の運びとなりました。



 ヒトコトで言えば、「もしも、ブルグミュラーが大人用の練習曲として書かれていたら」。要するに、子ども用のピアノ曲を、すでに成熟したピアニストが改めて取り組めるようにした、そういう曲集です。収録曲は以下のとおり。

 ・ひばり(op.100-24)
 ・スティリアの女(op.100-14)
 ・バラード(op.100-15)
 ・貴婦人の乗馬(op.100-25)
 ・タランテラ(op.100-20)

 他にも何曲か編曲しているんですけれども、コンサートのプログラムに組み込みやすい曲集となるように、この5曲を選びました。それに、『アヴェ・マリア(op100-19)』なんかは、無理に技巧的にするのもおかしいですし、あれは編曲不能の美しさですものね。

2017年4月8日土曜日

楽曲分析で何が明らかになるのか

 これはM先生の受け売りですが、
 バラバラに鳴らした何の脈絡のもない音列を「ファです」「ド♯です」などと答えられる人、いわゆる絶対音感の持ち主が多いのは、幼い頃から教育を受けたアメリカ人、中国人、日本人だとか。
 ヨーロッパ人の場合、絶対音感なるものの傾向はそれほど強くありません。意外に思われがちですが、案外、意外でもなく、ここでは「何の脈絡もない音列」であるというのがミソで、彼らは音と音との関係性を聴きとる傾向にあります。ゆえに、関係が分断されると分かるものも分からなくなる。一方、日米中の音楽家の多くは、どの音も等価なものとして聴いている傾向にあると言えます。
 この事象の理由については、きっと、お詳しい方がいろいろ研究なさっていることと思いますが、ミルトン・バビットのようなトータル・セリー作家に端を発したピッチクラス・セットの考え方がアメリカで浸透していくのは、ある意味では自然なことだったかもしれません。

 ちなみに絶対音感の最たるは小鳥さんたちだそうで、確かにあの子たちはいつも決まったテンポ、正確なピッチで歌っています。僕の住まいの向かいにある小学校のマーチングバンドがモコモコしたヘ長調で『歓喜の歌』を練習してますが、もしも小鳥さんたちが原曲を知っているなら、子どもたちの吹くそれを『歓喜の歌』だと認識できないかもしれません。もっとも、僕も小鳥さんたちとはまったく別の意味で違う曲に聞こえていますけど、けっこう気に入っています。

2017年3月14日火曜日

4音からなる動機の可能性は何通り?

 とある酒の席での話。
 「作曲をしているあなたに言うのも失礼だけど、もう音楽の可能性は出尽くされてしまった。バッハのような天才など二度と現れまい」と、僕の目の前に座った老人が嘆く。僕の曲を聴いてそれを仰ったのなら批判とも皮肉とも受け取れたので、素直に「ごめんなさい」と言うこともできたのですが、僕はただ「作曲家です」と自己紹介をして彼の前に座っただけ。で、これを言われた。
 バッハの後に生まれたモーツァルトもベートーヴェンもショパンもブラームスもみーんな天才とは呼べないということですね。という嫌味は胸にしまいましたけれども、僕はこれを心ひそかに末法思想と呼んでいます。さぞかし現代音楽は濁世を象徴するものと聞こえてらっしゃることでしょうが、紀元前から続く音楽という営みを、もう少し信頼していただきたいところです。

2017年2月28日火曜日

音楽の冗談、の常談(5)IV. Presto

 「交響曲第41番『ジュピター』の最後はケルンの大聖堂のようだ」と、グラズノフは表現した。というくだりが、ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫・訳 中公文庫1986年)のなかにある。いろいろと問題のある本で、これからの世代が手に取る姿がまったく想像できないけれども、『ジュピター』がケルンの大聖堂とは素晴らしい喩えだ。こうした言葉までひっくるめて読まれなくなってしまうのは、あまりに惜しい。

 今でこそ、誰もがモーツァルトと言うけれども、19世紀の音楽家が今日の様子を見たら、どうしてあんな古いものが、と驚くかもしれない。リムスキー=コルサコフにとって百年前のモーツァルトはそうとう古い作家だった。あのシューマンにとっても、五十年前の音楽はそうとう古く、縁のないものだった。演奏機会も多くなく、グラズノフやワーグナーのようにモーツァルトを熱愛する作家も少なかった。彼らからすれば、二百年以上前の音楽を毎晩のように聴き、百年を超える音楽を「現代音楽」と呼んでいるわたしたちの姿のほうが、よほど滑稽に映るかもしれない。

2017年2月27日月曜日

音楽の冗談、の常談(4)III. Adagio cantabile

 不思議な楽章である。第二楽章までを観察してきたわたしたちの耳からすると、形式的なアンバランス感をこの楽章から感じ取ることはないだろう。緩徐楽章としてちょうど良い規模を持っているし、素材も全て揃っていて、過不足ない。たしかに、ヴァイオリンによるカデンツァはおかしなものであることがただちに理解できるし、そもそも余計な自己主張に見えなくはないにしても、ところどころには普段の彼を窺うことすらできる。しかし、この何ともいえない違和感の正体は何なのだろうか。


 この楽章を聴いて真っ先に耳につくのは一小節目、第一ヴァイオリンの旋律にある「ファ♯」だろう。「ミ」から「ソ」に至る経過音の「ファ」に間違って付けられてしまった臨時記号のせいで「『ド』を主音にした『ファ』の旋法(音階の第四音が半音上がった旋法)」の旋律にも聞こえてしまう。しかし、これを直すのはたやすい。臨時記号を外せば良いだけだ。またも「筆者による訂正案」なるものを示しておいたので参照にされたい。ちなみに、二拍目のすぐにある「ファ♯」は刺繍音として正しいものであるから、このシャープを外してはいけない。

2017年2月26日日曜日

音楽の冗談、の常談(3)II. Menuetto

 この楽章の楽譜を手にすると、優雅な舞曲であるはずのメヌエットに「マエストーソ(堂々と)」などという場違いな指示がなされているのが、目に入る。
 第一楽章で彼が示したような冗談は、もはや主題のなかには見出せなくなっており、冒頭の四小節には理論的な間違いも見当たらない。軽やかに演奏すればメヌエットに聴こえるだろう。ただ、彼の指示どおりに、演奏者が堂々と演奏すればするほど、メヌエットの精神からは加速度的に外れ、救いようのない「狩」の音楽になっていく。そうすればするほど5小節目からのホルンがメヌエットの領域を超える。メヌエットにホルン的なモチーフが登場することは珍しくないが、あんまりだ。
 必要に応じて「本来の創作」も混じるようになる。彼はもう、まったく別の領域に踏み込んでいるのである。

 まず注目したいのは9小節目アウフタクトからの4小節。第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリン、ヴィオラとバスが、それぞれ3度の関係で動きを共有する。これは第一楽章の展開部ではじめて姿を現した「連続する3度を置いただけのもの」だ。しかも、第一楽章よりいっそう無意味に順次進行を連続させている。どうやら彼も、間違った音符に慣れてきたようだ。そのように書かれているものであるから、当然、和声分析を受け付けない。

2017年2月25日土曜日

音楽の冗談、の常談(2)I. Allegro

「当たり前のことが当たり前のように響く」とモーツァルトを形容する人がいる。それだけ自然で、なめらかな音楽だ。ただ、彼を讃える言葉として「当たり前」が妥当と言えるのかどうか、少し立ち止まって考えたい。

 『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』はシンプルなI度からV度の連結から始まるが、冒頭四小節間は思い切ったユニゾンで書かれている。和声は分散され、リズムが付けられ、I度は上行、V度は下行と性格も分けらる。5小節目からの保続音に乗って「ソファファ」「ラソソ」という上声の特徴的な倚音、トリル、ヴィオラの「ラドファラ」という内声、10小節目はI度の一転で、ふわりと終止する。
 一方の『冗談』もシンプルなI度からV度の連結から始まるが、和声の教科書がおっしゃるとおりの定形に配置され、1小節目でI度を3回鳴らし、2小節目でV度を3回鳴らす。わかりやすいと言えばこれ以上にわかりやすい連結はなく、「当たり前」といえばこれ以上に「当たり前」の表現方法はない。
 両者をもう一度比べよう。かたや彫琢されつくした美。かたや、原材料。
 彼はこの頃、すでに、ラモーが道すじを示した機能和声の方法論から遠く飛躍しており、後の時代にワーグナーが突き詰めることになる瞬間移動の術を手にしていた。他ならぬワーグナーその人が、モーツァルトのバトンを受け継ぎ、彼なりの方法でそれを展開させたのだ。あまり印象にはないかもしれないが、すでに時代遅れのものと認識されていた時代にあって、ワーグナーは熱烈にモーツァルトを愛していた。「当たり前」を嫌うあの人が、「当たり前」を愛するだろうか。

2017年2月23日木曜日

音楽の冗談、の常談(1)はじめに

 モーツァルト作曲、『音楽の冗談』Kv.522。
 1789年の完成。ウィーン古典派音楽芸術の王道中の王道、鉄壁の完成度を誇る彼の作品群のなかで、ひときわ珍妙で、頭を抱える一曲だ。あの素晴らしい弦楽五重奏曲や、代表的なオペラである『ドン・ジョヴァンニ』を作る一方で、二年にも渡る試作を重ね、入念に準備をし、彼は冗談を書いていたのだ。作品目録には6月14日の日付で『Ein Musikalischer Spaß』のタイトルを、自らの手で堂々と書き込んでいる。彼を一流の音楽家として育て上げた教師でもある父レオポルトの死から二週間で完成を見たというのも、なかなかにして冗談である。
 ちなみに同年8月には、ほぼ同規模の作品でありながら『音楽の冗談』とは対極にあるような、彼本来の信条である洗練の極致を象徴する、かの有名な『アイネ・クライネ・ナハトムジークKv.525』が作曲されている。

2017年2月22日水曜日

ババのないババ抜きは面白いと思う?

 誰だって一度くらいはババ抜きで遊んだこともあるでしょう。
 きわめてシンプルなゲームですけど、最後の手持ちのババをいかに相手に押し付けるか、というところに、駆け引きの楽しさが生まれます。一度でもこれで遊んだことのある人なら、わざわざ一枚「これを取れ」と出っ張らせた経験だってあるでしょう。ババのほうを出っ張らせる人もいるし、ババじゃないほうを出っ張らせる人もいる。ババじゃないほうを取られそうになったとき、あえて嬉しそうに口をほころばせ、相手を惑わせる性格の悪い人もいます。
 たった一枚ジョーカーを忍ばせておくだけで種々の人間模様が観察できる。それが、こういったゲームの醍醐味であるわけですが、もしもジョーカーの無い状態でババ抜きをしようものなら、ただ黙々と同じ数字のカードを整理整頓するだけ。ゲームではなく作業。手を使って良いサッカー、足を使って良いハンドボール、カバディと言わなくて良いカバディも、面白くは無さそうです。

2017年2月21日火曜日

音楽理論的に正しい料理教室(10)麻婆豆腐


 いままで勉強してきたまとめとして、麻婆豆腐に挑戦しましょう。
 普段なにげなく食べている麻婆豆腐ですが、これはTSDの機能が最大限に拡張された複雑な料理です。各素材の関係と作り方の時間設計は、中心軸システムとフィボナッチ数列が役に立ちます。

2017年2月20日月曜日

音楽理論的に正しい料理教室(9)カレー


 どうしてお正月のカレーって美味しいのでしょう。
 さて、基礎のしっかりしたオーソドックスなインド風のチキンカレーを作ると、それを主題としていくつもの変奏を用意できます。ますはスリランカ風に変奏してみましょう。

2017年2月19日日曜日

音楽理論的に正しい料理教室(8)マヨネーズ


 写真をご覧ください。
 右のココットに入っているものはマヨネーズですが、左のココットに入っている液体は何でしょうか。両方とも、同じ材料を同じ時間だけ混ぜたものであります。卵黄と酢と塩コショウを混ぜてから、最後に油を入れて攪拌させたものが右のマヨネーズ。油と酢と塩コショウを混ぜてから、最後に卵黄を混ぜたものが左。卵黄味のドレッシングになりました。

2017年2月18日土曜日

音楽理論的に正しい料理教室(7)おでん

 自分に厳しく。
 それはなかなか出来ることではないから、立派なことです。
 しかし、ぬるま湯に浸かり続けるからこその境地というものも、世の中にはあります。こたつの中から数ヶ月トイレ以外に出ない男のような境地。料理だと、おでんです。


2017年2月17日金曜日

音楽理論的に正しい料理教室(6)鶏の唐揚げ

 今日はキムチの素の転調的用法について講義したいと思います。
 瓶に入って売られているキムチの素。野菜を漬けたり、キムチ鍋にしたり。で、だいたい皆さん止まっていることでしょう。しかし、そんなふうにI度とV度を行ったり来たりしているだけでは、とうてい、あのひと瓶を使い切れません。いくらキムチ味が好きでも、毎日では飽きてしまいます。

2017年2月16日木曜日

車に乗れないということは

 僕は車に乗れません。
 免許を持ってないんです。取れる気もしません。のみならず、車を運転するという想像がまったくできない。どうやら死ぬまで東京近郊に住むしかなさそうで、それにはちょっとめげてます。あと、運転免許証で買えるタバコの自販機の存在にも、軽くイラっとしてます。
 車に乗れないということは、「交通手段がひとつないということ」にとどまらないんです。およそ車に乗る人なら当たり前のように入ってくる情報がひとつも入ってこない。認識できないんです。最たるものは車種名で、覚えられないのは当然のこととして、車体の像とまったく結びつかない。あれに乗っている、これに乗っている、という言葉の意味するところの社会的な符牒が読解できない。要するに、なにがなにやらさっぱりわかりません。僕のできる車の判別は、大きい、小さい、赤い、黒い、その程度のもの。なので、ひき逃げ事件を起こす予定のある方は僕の前がねらい目です。
 記憶力は決して悪いほうではないと思ってますが、脳のなかの車に関する回路が壊死しているようです。余談ですが、ボウリングの球をまっすぐ投げる回路も見当たりません。

2017年2月15日水曜日

音楽理論的に正しい料理教室(5)おいもの天ぷら


 お昼にさつまいもを天ぷらにする。
 天ぷらをさっくり揚げるコツは、氷水とか粉の溶き方ではないのです。世の中には天ぷら粉というものがあります。頼りなさい。そうやってなんでも一から自分でやろうとするから、天ぷらも人生も上手く行かないのです。って書いてて、自分の胸がすごい痛かった。

2017年2月14日火曜日

音楽理論的に正しい料理教室(4)煮物

 例えば、服のちいさなほつれなんかを「味」と表現する関西の方をよく見かけます。
 この場合の「あじ」は「↓↑」ではなく「↑↑」で、両方ともにテヌートアクセントがついている。生まれも育ちも東京なのに関西に住むようになって、しまいにこれを言うようになると、ついに魂を売り渡したな、という気持ちになります。揚げ物にレモンを絞れば目を押さえたり。「あっちだとやることが多くて…」やらなきゃいいのに。

2017年2月13日月曜日

【告知】翔べ!私立アレグレット学園/最終話

 泰西の作曲家を現代日本の高校生に擬人化する娯楽小説『翔べ!私立アレグレット学園』最終回の第12話は「えっちん、あるいは生への復帰。の巻」。
 
 あらすじ。アイドルの女の子にハァハァして毎日リプを送っていたら、ブロックされた上にアカウントが凍結されて生きる希望をなくしたえっちん(ベルリオーズ)が「もうオレ死ぬわ」と学校の屋上に立つ。いつものパターンだと察したりっくん(リスト)は慰めるでもなく、「そこの下は茂みだから、もうちょい右に移動するとコンクリになるからさ…」
 歴史上の本人たちのキャラが不必要に濃いので、どんなにいじっても本人たちのほうがダメ人間なので、この2人にはずいぶん遊ばせてもらいました。ぜひお読みいただければと思います。音楽現代3月号は2月15日の発売。

   
 ◇音楽現代2017年3月号
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 前回第11話の告知をうっかりしていました。「バレンタインデー・レジスタンス、の巻」は、サティ君が放送室に篭り妙なBGMに乗せて「チョコ嫌いチョコ嫌い」と840回つぶやく話。2月号は発売中であります。

   
 ◇音楽現代2017年2月号
 (amazonのサイトに移動します)

 『アレグレット学園』は今回で最終回ですが、4月号からはシーズン5ということで、装いをあらたに連載は続けていきます。よろしくどうぞ。

音楽理論的に正しい料理教室(3)とうがんのスープ

 料理が苦手だと自覚している方のほとんどに共通していることは、味をちゃんとつけようとするところです。味なら素材にすでについています。調味料は、文字通り味を調えるものです。肉なら肉の味にすべきであって、めんつゆ味の肉にしてはいけないのです。
 前回の豚丼の豚はサブドミナントと説明しましたが、ご飯の上ではなく別皿に盛れば、豚はトニックです。豚肉はご飯にとって下属調の関係なんですね。ご飯が主調です。主食とも呼ばれています。あくまでご飯を美味しくたべるための肉。肉とご飯を美味しくたべるための、めんつゆです。このTとSとDの力関係と栄養バランスを習得しましょう。

2017年2月12日日曜日

音楽理論的に正しい料理教室(2)豚丼

 料理が苦手だと自覚している方のほとんどに共通していることは、なにかものすごく手をかけないと料理じゃないという暗示にかかっていることです。でも、ピアノをはじめて1ヶ月の3歳の子がラフマ2番を弾くことはできません。まずは豆腐にめんつゆをかける。これで冷奴という一品である。そういう小さなエチュードの積み重ねを大事にしましょう。

 さて、冷奴をアナリーゼすると、豆腐がトニック、めんつゆがドミナントですね。
 めんつゆで豆腐がさらに美味しくなってトニックに解決。上に乗せるねぎや生姜はサブドミナント。素材自体は変わらないので、このドミナントやサブドミナントのバリエーションが多く持てると、レパートリーも自然と増えてきます。冷奴の場合、III度のドミナント的用法で、めんつゆのかわりに塩をふって熱したごま油を、じゅう、とやっても美味しいですよ。お好きな方はパクチーなどをサブドミナントに使うと、さらに奥行きが出るでしょう。

2017年2月11日土曜日

三國可奈子 サクソフォンリサイタル


 サクソフォニストの三國可奈子さんが、僕の『アルト・サキソフォンとピアノのためのソナタ』を5月12日に札幌で演奏してくださいます。故郷でのリサイタルという彼女の大切な一日にこの曲を使ってくれるのが何よりうれしいです。2月11日よりKitara club会員への先行告知、チケット販売は2月18日から。北海道の皆様、ぜひ応援をよろしくお願いします。

人間は自分の聴覚を否定する

 しばしば、作曲家はドSです。僕も身に覚えがあります。
 それはどう考えてもしんどい、という音を「きみ、やってごらん」と、ついつい書いてしまうことがあります。わかってないまま書いてはいけないものですが、ちゃんと訓練された作曲家の場合、悪気があるという意味で悪気はないのです。そこで音楽的にどういう化学反応が起きるか、のほうが圧倒的に大事なので、一笑いのために上島竜兵を熱湯風呂に突き落とすようなことは、当然します。

2017年2月10日金曜日

音楽理論的に正しい料理教室(1)大根のサラダ

 とある打ち上げで料理の話になりました。
 僕の料理好きは僕の仲間内ではみんなの知るところ。とある若い女の子が「わたし料理できないんです」と言っておりました。普段は適当にめんつゆばっかり使っているから、今度教えてください、と。しかしめんつゆが一本もあれば、たいていのことは何でもできるのです。それを今日は、彼女に教えてあげたいと思います。
 
 料理をニガテと自覚している人にほぼ共通して言えることは、みんな、頭からちゃんと作ろうとしすぎていることです。楽譜にフォルテが書いてあったら何デシベルで、ピアノなら何デシベルで。そういうふうにレシピを追っちゃう。みなさんそんなふうに弾いてますか。弾かないでしょう。だからここをまずテキトーにすることが大事なのです。
 めんつゆのように単純な調味料は、材料を通るだけで味が変わるので、これをまず体に叩き込みましょう。同じ「ド・ミ・ソ」でも、ハ長調のI度とヘ長調のV度とト長調のIV度とホ短調のVI度とホ長調の準VI度では意味合いも風味も違いますね。レシピをまるまる暗譜するのではなく、素材の質感をソルフェージュできるようなれば、きっと料理が上手くなります。

作曲家が聴いているのは、原油

 作曲家と演奏家の視点は、どうしても違います。
 音楽家の場合なら、視点ではなく「聴点」と言ったほうが良いのでしょうか。すでに出来上がっている楽譜を毎日見ている人と、何も書かれていない五線紙を毎日見ている人とでは、発想が違って当然です。演奏家という人は解釈が上手いなと思います。上手すぎることもあります。プリクラや「SNOW」で撮るように作曲家像を本人の2割増で盛ってくれると、それはそれでこちらとしてはありがたいんですが、あまりにも深く考えすぎて、考えなくても良いことまで考えてしまって先に進めずにいる若い演奏家などを見かけます。そのままで良いのに、と、思うわけです。

2017年2月9日木曜日

お前の仕事はなんや その3

 美大で勉強してきたあなたは、自宅で絵画教室を開いています。
 この2月、近くに住む小学生の男の子が母親に連れられやってきました。お絵かきが好きというこの子は、しかし初めて見る絵描きの部屋にひどく緊張しています。石膏デッサンなんかやらせた日には今にも泣いちゃいそうです。まずは彼の緊張をほぐそうと、あなたは考えました。
 「ワンピース、描こっか」
 あなたは一枚の裏紙に鉛筆でルフィを描きました。みるみる彼の目が驚きに満ちてきました。すると、そこに知らない番号から一本の電話が入りました。
 「どちらさまですか」
 「集英社です。いまあなたルフィ描きましたね。作品使用料をお支払いください」

2017年2月8日水曜日

お前の仕事はなんや その2

 音楽界隈の収まる気配がないですね。
 「この話って家に泥棒が入って来ない様にセキュリティ頼んだら、友達が遊びに来ても阻止された。みたいな話だよね」と、連載のイラストを描いている緒裡君が言っていました。
 上手いことを言うものだと思いました。

 著作権、著作者人格権のような語については、お詳しい方が解説されているので、ここで繰り返すことはしません。それはJASRACを通さなくても「ある」ものです。信託の契約を結び、財産としての著作権をまるごとあちらにお預けすることで、彼らは彼らの根拠を得ています。よって、作曲者本人といえども自分の作品を自由に使うことはできません。これは「おかしい」ではなく、そういうものです。銀行の中にある定期預金と似たようなものと思えば想像しやすいかもしれません。

2017年2月6日月曜日

お前の仕事はなんや その1

 音楽界隈が例の話題で持ちきりですね。
 生徒が先生の前で弾いたり、先生が生徒の前で弾いたりするのが「公衆」に当たるというのは、すごい話です。もののついでにラブホのなかで裸になっている男女も一人残らず公然わいせつでひっ捕らえてくれれば良いと思います(ただのヒガミ)

 さて、かれこれ10年ほど前のはなし。
 僕の曲が某公営FM局で2回流れたことがありました。放送使用の分配はけっこう割がよい、という風の噂を耳にしていた上に、演奏家個人のぽんぽんが痛まないお金。なんとすばらしいものでしょう。僕は期待に胸を膨らませておりました。
 ところが。放送から1年経ち、2年経ち、3年経ってもまだ入ってこない。しびれを切らした僕は代々木に電話して「どうなっているんでしょう」と訊きました。そうしたら、担当者の方が「ずいぶん古い話ですねー」と、とてもしみじみとした声で感心していらっしゃる。

2017年1月24日火曜日

演奏家のための和声のはなし(10)時間

 だいぶ前だが、最後の琵琶法師という人の演奏する映像を見たことがある。
 肥後琵琶の、盲目の老人で、本当にそれでなければ生きていけなかった人だ。おそらくは彼の家の、緑がかった昭和色の冷蔵庫の前で、こたつに座り、調弦など無いに等しいぶよぶよとした響きに乗せて唸っていた。ひどく格好良かった。社会保障の整った現代社会の方が盲人にとって暮らし良いに決まっているが、彼らの音楽は世界から失われ、代わりに夢を追う若者がそこに座る今日だ。
 それからしばらくして、ウードで弾き語りをするバーレーンの民謡を聴いた折、それが肥後琵琶の老人の謡と非常に似た印象を受けるものだったので、驚いたことがある。

 アラビア語「ウード」とペルシャ語「バルバット」は同じ楽器を指す。似たような文字を使う両者だけれども、一方はセム語、一方は印欧語なので、丸切り違う言語だ。「ウード」に定冠詞アルをつければ「アル・ウード」。ただし会話中では(フランス語のリエゾンの要領で)「ア」が落ちるので「ルード」となる。これがジブラルタル海峡を渡りリュートになったようである。一方の「バルバット」は東に向かい、琵琶に。北に向かってヴィオラになる。ペルシャ語には定冠詞が無い。

2017年1月23日月曜日

演奏家のための和声のはなし(9)楽器

 作曲家の見ている風景は、次の小節が常に白い。
 演奏家はいつも完成品を見ている。だから、次の小節が常に「ない」という状況を想像するのは難しいかもしれないけれども、そうは言っても無いものは無いのだ。自分が書くまでそれは存在しない。次の小節が無いという点に関し、すべて作曲家は平等である。バッハが見ている白紙と、ガーシュインが見ている白紙と、僕の見ている白紙は、まったく同じものである。

 そこから先に何を書くのかが重大な問題なのは百も承知だが、案外、この「当たり前」は見過ごされがちだ。
 よって、分析者の陥りがちな罠が2つある。
 ひとつは、目先の分析にとらわれること。その場の事象に目がとらわれがちになること。ひとつひとつの文字を取り出し、dは子音、oは母音、gは子音、と考えてしまうこと。作家はそこにdogという単語を書いている。ときにはそれを逆行形にしてgodとも書いている。作家としてはそちらの遊びを楽しんで欲しいわけだが、それには気づくことなく、また新たに、gは子音、oは母音、とTSDの記号を振る。そう足元ばかり見て歩いていては、かえって道に迷ってしまう。
 もうひとつは、作品の出来上がりに感心しすぎてしまうこと。

2017年1月22日日曜日

演奏家のための和声のはなし(8)集合

 20世紀に新しく生み出された理論のひとつに「ピッチクラス・セット」がある。
 作曲家ミルトン・バビットによって提唱され、理論家アレン・フォートが1973年に著した『無調音楽の構造 ピッチクラス・セットの基本的な概念とその考察』(森あかね・訳 音楽之友社2012年)によって体系立てられ、詳しく説明されている。邦訳の森氏はフォートの弟子であり、ハートフォード大・ハート音楽院准教授を勤められている。この本の翻訳時には僕もささやかながら協力させていただいたので、宣伝を兼ね、この理論の入門編という体で、少し遊んでみようと思う。
 
 バビットはトータル・セリエリズムの作家として知られるが、その彼発案の概念であるから、異名同音を等価のものとして扱うことを前提とする。表記の統一を図るために音名ではなく整数を使って音を示す。ドを0として、ド♯/レ♭が1、レが2、以降3、4、と続く。

0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
C
C♯/D♭
D
D♯/E♭
E
F
F♯/G♭
G
G♯/A♭
A
A♯/B♭
 
 これによって、音程もまた一つの言い方に統一できる。
 「シ♭とレ♭」「ラ♯とド♯」は短3度・長6度だが、「シ♭とド♯」なら増2度・減7度、「ラ♯とレ♭」なら重減4度・重増5度になる。これを「10と1」その差は「3」と表現できるようになる。オクターヴ以上離れた関係もすべて0から11の数字に直す。よって「長10度」であるとか「1オクターヴと完全5度」というような表現をしない。

2017年1月21日土曜日

演奏家のための和声のはなし(7)5度

 ハ調では、「レ」を根音とする和音にII度とドッペルドミナントがある。サブドミナントと説明されるが、長調のII度は短三和音、短調のII度は減三和音。ドッペルドミナントの場合はどちらも場合でも長三和音になる。
 ドッペルドミナントは字義の通りにV度調のV度を意味しており、属七の和音や属九の和音など、V度に積み重ねられる形の和音がそのままの形で使える。現代人にとっても最も馴染み深い「V度調の属九」の和音は、大ヒットした任天堂のテレビゲーム『スーパーマリオブラザーズ』の主題で、「ミミ、ミ、ドミ、|ソ」の最初の小節がそれだ。ハ長調の「ド」と「ミ」をこれで和声付けするのは、なかなか大胆で、面白い使い方だと思う。
 長調のII度はVI度調のIV度とも解釈できる。短調のII度は非常に特殊なものだ。そこに生じる減5度の分断がロマン派以前の音楽を特徴付けていると思われる。「レ」を半音下げ「レ♭」にして使うナポリのII度を、ラモーはIV度の変化した形だと説く。同様に、バスに「ファ」を置く第1転回形は(I度調の)IV度「ファ・ラ・ド」の「ド」が「レ」に持ち上がった形と捉える。よって、第3音「ファ」は重複させる配置が最良であるとの案内が、和声の初学者にはなされている。
 調性音楽では、根音を同じくした和音であっても、II度とドッペルドミナントの根拠はあくまで異なるものではあるのだが、「ド」からの完全5度を並べ、I度とVI度というトニックの5度下はサブドミナントであるということを図式化すると、上の図のようになる。

2017年1月20日金曜日

演奏家のための和声のはなし(6)音の網

 空間の豊かさ、線の自由さが、古典派以降の音楽の醍醐味だ。
 ゆえに、転調の巧妙さや複雑さが課題となったのは以前にも触れたとおり。7音の音階は次第に手狭なものになる。いっそう広い空間を確保するために、5度と3度を核にして12音をくまなく使おうという試みも起こる。12音をくまなく、と言えば、シェーンベルク一門の12音技法を思い浮かべるかもしれないが、それは「いままでの音楽と同じように書くため」のものだったと彼自身も何度も強調している。ロマン派の作曲家たちは彼に先んじて12音を等価のものとして扱っていた。そうした現場の実際に追いつくべく、新しい理論もまた考え出されるようになる。

 左の図をご覧いただきたい。
 理論家フーゴー・リーマン発案による「トーンネッツ」というものだ。決して何かの化学式ではない。この網目模様が(まさに)編み出されるきっかけとなった「ネオ・リーマン理論」については後回しにして、まずはこの中からCの字を探そう。そのCから右に進むとG、D、Aとある。左に進むとF、B♭、E♭がある。横方向には完全5度が並んでいるのだ。
 同様に、右向きの斜め線は長3度、左向きの斜め線は短3度で、規則正しく並べられている。正三角形は長三和音、逆三角形は短三和音になる。試しに「ド-ソ」の線を軸にして三角形を逆向きに(線対称移動)すると「ド・ミ・ソ」が「ド・ミ♭・ソ」になる。「ド」と「ソ」を共通音とした進行だ。

演奏家のための和声のはなし(5)3度

 長調にとっての平行調はVI度調だが、短調のそれはIII度調である。
 調号を同じくする調が平行調だ。ハ長調にとってはイ短調。イ短調にとっては、ハ長調。ソナタ形式では、長調の場合は属調で、短調の場合は平行調で第2主題を提示するのが定石とされる。よって、短調のソナタはIII度調に向かうはずだが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタop.31-2はニ短調からV度調のイ短調に進み、ずっと暗いままである。定石とは何なのだろうか。


 『未完成』として有名なシューベルト交響曲第7番(世代のせいか、このナンバリングには未だに違和感が消えてくれない)はロ短調。定石通りに進むのであれば第2主題はニ長調で提示されるはずだが、「シ・レ・ファ♯」で終止したI度の第3音「レ」を軸にしてト長調に進む。ロ短調から見ればVI度調である。平行調であるニ長調の第2主題を聴くためには展開部後の再現部まで待たなければならない。いよいよ定石は定石なのかが疑わしくなってくる。

2017年1月19日木曜日

演奏家のための和声のはなし(4)記号

 「和声を教えてほしいんです」と、酒の席でとある若者から相談を受けた。
 「1や2で習っていたものが、次の学年から4や6になったので意味がわからなくなった」とこぼしていた。これは転回形の話題である。「ドミソとミソドは違うものとして聴こえているでしょう?」と慰めその場をごまかしたが、彼も酒を飲んでいる僕に相談するべきではなかった。
 それらは所詮、ただの記号に過ぎない。それ自体に意味があるわけでもない。「なぜ赤信号は赤である必要があるのか」と質問されても答えようがないのと同じことだが、彼にとってはパリサイ人のパン種のような話に見えるのだろう。いま少し辛抱してもらいたいものと思う。
 芸大では林達也著『新しい和声─理論と聴感覚の統合』(アルテスパブリッシング2015年)に教科書が改められたと聞くが、この影響がどのように顕れるのか、わからない。当時の作曲科学生の例に漏れず「芸大和声」として知られる島岡譲執筆責任『和声 理論と実習』(音楽之友社)を僕は学んだが、ひととおりのことを出来るようになろうという人には、あの3巻本は非常にスマートであると思う。受験の頃にはさんざん呪詛の言葉を吐いたが、そう思う。合理的である。しばしば合理的に過ぎる面もある。残念ながら、音楽を志そうという人が誰しも合理的であるとは限らない。
 そうして、「準固有V度調属9根音省略形体下方変位第2転回形」などという和音を前にして、先の若者のような学生が、毎年、頭を抱えることになる。

2017年1月18日水曜日

演奏家のための和声のはなし(3)禁則

 和声の初学者をうんざりさせるのは、何と言っても禁則の数々だ。
 連続5度・8度の禁止、テノールが短2度、バスが完全4度上行する場合以外の並達1度の禁止。作曲科志望の受験生ならば、そういうものだと諦めて渋々覚えもするが、そういう心の準備のないまま講義を受ける演奏の学生の場合、どうしてそれがいけないのかが説明されないまま、どうにも腑に落ちないまま、ドビュッシー『ベルガマスク組曲』メヌエットの冒頭をさする。

 中田喜直『実用和声学―旋律に美しい和音をつけるために』(音楽之友社)に、ピアノの場合これらを禁則とする意味はない、という旨の記述がある。忌憚なく言えば、少々誤解を招く表現だ。というのも、ピアノの場合、オクターヴや5度を重ねるのは和声というより楽器法に関する話題と言うべきであって、これを連続と言ってしまったら、8×8フィートで演奏するときのチェンバロはすべて連続1度に、ストップ全開のオルガンはすべて連続5度になってしまう。ナンセンスである。ピアノという楽器にはそういう機構がないので、書くよりほかないだけだ。

 そもそも和声の学習は合唱で実施する。どんなに簡単な課題であっても、五線紙の向こう側に20人や30人という男女がいるのを想定しなければならない。ソプラノの声色、アルトの声色、テノールやバスの声色、すべて個性の違う声色があることを注意深く聴かなければならない。その意味で、和声学習の目的は、対位法や管弦楽法の目的と一にしている。

2017年1月17日火曜日

演奏家のための和声のはなし(2)機能

 テナガザルは歌を歌うという。
 ゴリラ、チンパンジー、オランウータン、ボノボとヒトとが含まれるヒト上科のなかで、テナガザルはもっとも古くに分岐した系統だという。その彼らが、雄と雌とが交互に複雑なフレーズを即興的にやりとりしつつ、彼らの社会を円滑に進めている。野生の個体も動物園で生まれた個体も等しく歌を習得するようだ。音程とリズムとが彼らの「言葉」であるわけだが、思えば人間の言葉も、それは音程とリズムとに他ならない。

 長い歴史のなかで人は言葉という道具を洗練させてきた。そもそもはテナガザルのように、その社会におけるその時のコミュニケーションのための道具だったのだろうが、これが文字によって記録されるようになると、今度は文字からも言葉を考えられるようになった。複雑な思考に耐えられるようになった。実際には無かった妄想の世界まで想像して書き残すようになった。「見てきたような嘘をつく」と言うが、作家はそれを生業とする。今日もなお、我々はマンガやアニメやゲームによって非現実を楽しむ。人の社会には非現実の必要が本能的なものとしてある。我々は非現実を歌う。しばしば、それらの非現実に現実が追いつくこともある。
 
 音楽と言葉とを単純に比較することはできないけれども、記録の方法の発明によって複雑化していったという点においては、言葉の歴史とよく似ている。

2017年1月16日月曜日

演奏家のための和声のはなし(1)

 フォン・ユクスキュルが著書『生物から見た世界』(日高敏隆、羽田節子・訳 岩波文庫2005年)に「環世界」という語が出てくる。生物が体験しているのは環境そのものではなく、生物自身が行為と知覚とによって自ら作り上げた「環世界」に依っていると。マダニの例では、酪酸の匂い、動物の皮膚の温度と感触、それに触発されて行われる単純な行動がマダニにとっての環世界のすべてであって、それ以外の環境の膨大な情報や行動の可能性は存在しないも同然であると。
 ヘルマン・ヘッセ『デミアン』(実吉捷郎・訳 岩波文庫1959年)にも蛾の話が出てくる。ある種類の蛾は雌の個体数が極端に少ない。その地域に存在するたった一匹の雌を目指して、何キロと離れた距離を何時間もかけて何匹もの雄が飛んでくる。そのような気の遠くなるような行いが、彼らの生態系の当然のこととして、ある。
 
 型枠大工の父と按摩の母の息子である僕にとって、これらはどこか他人事としては片付けられない響きを持っている。音楽家など家系にひとりもいない。クラシックに結びつく経験を幼年時代に探し求めることができない。にも関わらず、僕は、中学生に上る頃にはストラヴィンスキーチャールズ・アイヴズを探し当てていて、今は音楽家になっている。

2017年1月14日土曜日

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

大晦日に曲を書き上げ、そのまま盛大に風邪を引き、寝正月ならぬ寝込み正月を過ごしました。38歳で経験する38度の熱は子供の頃のそれより辛いような気がします。しばらく多方面に音信不通となりましたが、もう大丈夫です。

昨年中は大変お世話になりました。
特に、いつもの無計画な思いつきで4回の個展を開催しましたが、共演してくれた演奏家仲間たちと、会場を提供していただいたうえに色々とお力添えをくださった日本ダブルリードの皆様、それからもちろん、ご来場くださった皆様に、心から感謝申し上げます。

作曲家をしていて感じる七不思議の一つに「初演者によるものでなくても、再演は角が取れて丸くなる」というのがあります。再演者が全員、初演者とはまったく別のメンバーであっても、初演の演奏を知らなくても、どういうわけか初演者の経験が引き継がれる。楽譜に残っていた鉛筆の粉のざらつきが払い退けられ、手触りが滑らかになる。昨年の個展シリーズでも何回かそれを経験しました。少し大げさに言えば、人類共通のデータベースでもあるかのような感覚です。

部分部分を抜き出してしまったら、そこには上手く行った行かなかったは当然あるわけですが、やはり、演奏なくして作品は輝けない。参拝者に撫でられまくってテカテカになってる仏さまみたいなね、ああいうのが、人の営みの蓄積というものでしょう。音楽史の名作だって、元々のモノの良さはもちろんあるにせよ、ありがたさとご利益によって人々にナデナデされているからこそ、いつまでも輝き続けていられるのです。

40歳を前に、散らかっていたサイトを処分し、全てこのブログに一本化しました。長年使い慣れたドメインも(これまた思いつきで)改めました。旧作の紹介などもしつつ、近況報告はもう少しマメにしつつ、演奏家仲間にナデナデしてもらえる作品番号100番台を書くべく、心新たに精進しようと思います。