2015年6月8日月曜日

中部大学キャンパス・コンサート プログラムノート


 (アンコール:悲歌~「原民喜の詩による3つの歌曲」より)

 ◎第78回キャンパスコンサート「西澤健一作品展」
 ◇ごあいさつ
 
 本日は「西澤健一作品展」にお越しくださり、まことにありがとうございます。
 今日におけるクラシック音楽の演奏会は、そのほとんどが100年から300年前のヨーロッパで書かれた楽譜を演奏するもので、同国、同時代を生きる(まだかろうじて)若い世代の作家が自ら演奏する場面に立ち会う機会は、それほど多くないでしょう。
 「ひとり燈のもとに文をひろげて見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる(徒然草第十三段)」いにしえの作家を愛するとは素敵なことです。が、彼らの作品があまりに素晴らしいので、彼らもまた生身の人間であったことを、現代の我々はしばしば忘れがちになります。
 中部大学キャンパスコンサート。過去の公演記録を拝見するかぎり、作曲家の個展は僕が初めてのようで、たいへん光栄に思い、また恐縮しております。今日は僕の作品のなかから、ピアノ曲、管楽器のためのソナタと歌曲集を選び、用意しました。昭和53年新宿生まれの、まだ生きている37歳の男が今までに書いてきた音楽を通し、何百年、幾百万という人々が額づいてきた音楽という営みについて思いを巡らせて頂けるなら、これ以上の幸いはありません。
 

 ◇プログラムノート

 「曲を書くときは何をイメージするのですか?」
 作曲家をしていると必ず受ける質問です。様々なクラシック作品の解説でも「祖国が侵攻されて、憤怒のあまり」のような文言をよく見受けます。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て、ワシントンは桜の木を折ったのを告白する。音楽を少しでも理解したいために、そのような種類の逸話を知りたいと願うことは、決して悪いことではないかもしれません。
 例えば「ピアノのための瞑想曲『ソニア』」の場合、その質問には答えられます。これは、とある写真(写真家の妻をガラス越しに写した美しいものでした)から受けた印象を音で描いたものです。僕は当時17歳、音楽大学に入学する直前の、現代音楽の好きな少年でした。
 この少年が試みたような作曲の方法は、しかし早晩に行き詰まります。音楽は耳の芸術であり、音と音との関係の時間による変化を楽しむ芸術であって、音ではない何かが作曲家のなかで居眠りする着想に呼び水を与えることもあるかもしれないにせよ、音楽作品を構築、持続させ、興味深いものにすることには寄与してくれません。音を音によって考えるとき、はじめて先人たちの膨大な蓄積の一端が、深淵(または奈落)の口を開けるのです。
 よって、思うところは音以外何もなく、純然たる抽象的知的興味によって構造物を組み立てたに過ぎない、と、正直に答えても、なかなか納得してくれません。「愛する人のことを想って」などと気の利いた嘘でもつければ、良いのでしょうが。
   * * *
 「知らない曲はどのように聴けば良いのでしょうか?」
 これもまた時おり受ける質問です。ならば、知っている曲はどのように聴けば良いのでしょう。芸術作品を正しく理解するのは、ちょうど自分自身を過不足なく正確に評価するのと同様に、非常に難儀なことですが、案外、本人が気づきもしていない部分に、背中の小さなホクロのようなものに、人は魅力を感じてくれることもある。「アルト・サクソフォンとピアノのためのソナタ」を、共演の堀江君はナルキッソスの神話に喩え、5年前に名古屋で演奏してくれました。本当はフランス滞在中に居候した家主への宿代がわりに書いた曲なのですが、そんな台所事情を微塵も感じさせることなく、今日、彼をはじめとする多くの若い日本のサクソフォン奏者たちが、この作品によって自らを高らかに歌い上げてくれます。演奏家や聴衆が美しいと感じ、音楽によって自由を得てくれること以上に、作曲家にとって大切な「作品の意図」など、あり得ましょうか。
   * * *
 作曲家が自ら歩む道を定めるのに、母国語は大きな役割を果たします。
 僕にとって日本語はとても大切なものです。国粋主義のような意味ではなく、僕が作曲家として携わるべき世界で唯一の言語として大切です。ヨーロッパから持ち込まれた種は、日本語の土壌の上で、芽吹き、この地を無二の母として、育つべきです。
 このような意味を抜かしても、歌曲の作曲にはたいへんな喜びを感じます。それは、独りではないということ。言葉のとおりに、言葉の命じるままに音を埋めると、そこに生身の人間が姿を顕す。言葉を語るその人の人となり、人と人との関係性が音によって彫塑される。音楽のなかだけでなく、実際の生活においても、人間関係は音としての言葉で築かれていくものです。
 横光利一の自伝的短編を、私の十年来の盟友、岸田洋一氏に詩作品として再構成していただいたものをテキストに用いた「春は馬車に乗つて」では、肺の病を患った妻と、妻を看病する作家の夫という一組の夫婦が描かれます。テキストを読み即座に女義太夫を連想した僕はメゾ・ソプラノを念頭に作曲しましたが、夫の目線で語られる原作の世界を妻の目線からも覗くことができることになるだろうとは、自分で演奏するまで、自分でも想像していませんでした。
 その妻の目線をさらに裏返しにした解釈を札幌で披露してくれた岡元君の歌声を聴き着想した「自殺者たち」は、芥川龍之介、太宰治、有島武郎、原民喜といった自殺した文豪の遺書と、夏目漱石「こころ」から、作中の先生が親友Kの自殺した遺体を発見する場面をテキストに用いた歌曲集です。人生5人分を15分で終わらせなければならないので、当然、時間の圧縮がそこにあります。言葉に圧力をかけることで、自殺だけではない別のテーマが、必ず舞台の上に現れるはずです。
   * * *
 以上のプログラムの前奏曲として、「幻想小曲集第一巻」から2曲を抜粋して演奏します。これは見開き1ページずつの7曲からなるシンプルなピアノの小品集で、ロベルト・シューマンのように、ピアノという楽器が美しい声で歌う、その歌声を、ただ聴いて、書き留めたものです。

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