2015年4月9日木曜日

成都紀行


 ある成都の男が、バカンスを日本の沖縄で過ごしたという。
 美しく広がる青い空、きらきら光る青い海、そして燦々と輝く眩しい太陽。自然を心から満喫していたものの、男は次第に体調を崩し、ついに寝込んでしまった。何日も何日も寝込んでも一向に体調の戻る気配がない。仕方ないので医者に診てもらうと、医者は男を駐車場に連れ出し、車のマフラーにホースをつなげ、ホースにマスクをくくりつけ、それを男の顔に押し当て、エンジンをふかした。
 「…ああ、故郷の空気だ」
 こうして、成都の男は元気になったという。


   * * *
 火鍋をつつきながら、当の成都で、まさに成都生まれの男が、上機嫌でこんなジョークを披露していた。成都の空気はお世辞にも綺麗とは言えない。申し訳ないと思いつつも、僕は彼の話に爆笑した。私たちは排気ガスを吸って大きくなったから、と、成都の人は、よく自虐的に言う。
 「ところで、四川の料理は日本人には辛いんじゃないの?」
 たしかに辛い。ひたひたの赤い油に浸かっている肉や魚や野菜やきのこに、唐辛子、山椒、そしてニンニク。食えない人は多いだろう。が、僕の舌も胃袋も、わりとその土地土地に順応するように出来ているので、問題はない。(日本に帰ってから食べた麻婆豆腐の味気のなさに、かえって驚いた。)国境を越えないだろうと彼らが思っている味を何でも美味しく食べ続けたり、火の着くような白酒をぐびぐび飲み続けたりすると、好みの女を教えろ、結婚してここに住め、と、斡旋される。目に本気が含まれているので、少々怯む。あとはタバコが吸えれば、草の根の交流は、これでひとまず充分だ。自慢気に差し出された「習近平と同じタバコ」は、そうとう値の張るものらしい。


 1月末。とある計らいがあって、僕は中国の成都を訪ねた。
   * * *
 蜀の古都。掘れば遺跡が出てくる歴史の街は一千万もの人口を抱えて経済的な急成長を遂げている真っ最中である。車の流れは一日中止まる気配もなく、数秒おきにクラクションが鳴る。そこかしこに巨大なビルが建ち、夜には白い靄がかかり、ホテルの窓ガラスは黒く汚れていた。1年のうち200日は曇るという天候。一週間の滞在で、ついに太陽を見なかった。
 ホテルのフロント脇では、ピンクの外套に身を包んだ女がタバコと酒を売っている。ください、と言っても、いまいいところだから、と、手元のタブレットを手放そうとしない。暇つぶしに映画を見ているらしい。ぽつぽつ並んでいる酒の瓶には満遍なくホコリが積もっていて、本物かどうかわからないの、などと、首をかしげニヤリ笑みを浮かべながら、恐ろしいことを言う。
 中国で飲む酒は、白酒以外、あまり美味くない。興味本位で買った缶の黒ビールは特にひどい味がした。酒場ではつまみのナッツもあつあつに揚がってくる。手を油まみれにしながら、これにはさすがに閉口した。彼らは果物を、特にスイカをよく食べるが、きっと油抜きでもしているのだろう。スターバックスを何軒か見かけたが、濃いコーヒーが飲めそうな店は多くなく、やはり茶のほうが美味そうだ。茶を飲ませる店は、外装内装からして意匠が凝らされ、洗練されている。清朝の建築物が残る寛巷子の様子なども良い。通りでリズミカルに叩きつけられている餅などを食う。


 歌手であるS先生と合流し、楽山大仏に寄ってから、峨眉山に登る。
 李白の詠んだ秋でも、月の出る夜でもなく、冬の昼間だ。麓から山頂に至るまで露店が軒を連ねていて、手袋や草鞋を売る老婆の強襲をかわしても、寒さが身に堪え、ぶるぶると体が震えはじめたところに、ちょうど良く防寒着をレンタルするような店があり、そのあざとさには上手いというより少々興ざめの感もあるが、意地を張るほど寒さに強くもないので、しぶしぶ借りることにする。
 峨眉山は聖地だけあって、チベット族の顔も多く見かけるようになる。積み重ねた信心を背負って腰の曲がった老人だけでなく、ここがどこだか分かっていないような顔をしたまま親に手を引かれている小児に至るまで、みな憂いを秘めているというのか、独特な目をしている。山頂には黄金の大仏。象に乗る仏は普賢菩薩だが、霧が濃くて象しか見えない。巡礼のチベット僧たちが読経する。寺院の裏、切り立った崖に沿って、さらしのような布。チベット語でびっしりと経が書かれている。誰がどうやってこれを崖に垂らしたのだろう。一面の白。幻想的な光景に、一瞬、寒さを忘れる。
 熱心に祈る敬虔な人びとの横で、熱心に写真を撮る人びと。ふつうに暮らしてきた漢族にとっては、一種のパワースポットになっているようである。


 雪に濡れた頭のまま、麓の街の食堂で食う。
 奈美悦子のような顔をした女将に灰皿を借りようと思ったら、ライターを渡された。灰皿がほしいと身振り手振りで伝えると、タバコ屋ならすぐ目の前にあるという。僕は彼女の言葉がわからない。彼女も僕の言葉がわからない。わからないなりに、そのまま僕たちはなんとなく会話らしいことをした。自慢ではないが、僕はある年齢層のある種の女性たちに、モテる。日本の酒場ではよく経験することだが、国境を超えても効力があるとは思わなかった。
 もっとも、彼らは知らない者どうしでも、よく喋る。ときに口論さえしている。
 歌手のS先生は高名で、全土に多くの弟子を抱えている。子供は2人いて、妹は産まれたばかり。兄はそうとうやんちゃ盛りで、まるまる肥り、いたずらばかりするかと思えば、タブレットでゲームばかりする。習いたての英語で僕に話しかけてくるが、女将ほど会話は続かない。
 震災で親族は無事だったのかをS先生に心配される。震災後、間もなく、S先生たちは被災地の慰問およびチャリティーコンサートを企画していたのだが、そろそろ日本に渡ろうかというところで、島の問題が勃発した。いま日本に渡るのは危険だろう、ということになり、企画はそのまま立ち消えになってしまったという。さりとて無念を語るでもなく、さばさばした顔で「仕方ないのよ、政治の話は」と言いながら、肩をすくめていた。我々の国よりよほど政治の強い土地柄では、いろいろ苦労も多いことだろう。


 S先生の祖父君が傘寿を迎えられたとのこと。ご好意で、そのパーティーに参加させていただく。あまり外国人の入れない場所だろう。赤地に金の「生日快楽」封筒。食べきれない量の料理が出て、テーブルの中央には白酒の瓶と、高価なタバコ。S先生もその歌声を披露する。めまいがするほど高い声で縦横ななめに羽ばたいていく。見事なものだった。
 学者や芸術家の多い家系で、久方ぶりに聞く流暢な日本語が何人もの口から発せられる。みな日本の大学に留学していたらしい。辛いものが食えなくて帰ってきちゃったよ、などと、ある人は冗談めかして言っていたが、ひょっとすると、冗談なのではないかもしれない。
 僕が日本人であると知るや、ある若者とその母が、日本の大学事情を様々に尋ねてきた。彼らいわく「日本は教育によって成功した国だから」という。母は自ら知っている大学の名を次々に挙げ、ここは名門か、ここは有名か、経済を学ぶにはどこに入るのが良いのか、と、訊いてくる。僕の言葉を眼の色を変えメモに取る母の姿に、孟母三遷の言葉を思い出す。
 若者は教育が行き届いていて、英語もよく喋る。日本ではどういう初期教育が行われているのか、という問いに対し、いくつか有名どころの漢詩を紙に書いて点を振ったところで、彼は日本における漢詩の勉強方法よりも僕の書いた字のほうに興味を示し、写真に撮っていた。自慢ではないが、僕は無駄に達筆だ。「漢字をもっと多く使う国に生まれているのに、あなたのように上手く書けない」と、うつむきながら首を横に振る。こんなに素直に反省したりできない僕は、かえって気恥ずかしくなった。
   * * *
 「上のほうがなにやら面倒なことをしているけれども、同じ髪の色と同じ肌の色を持つ数少ない兄弟として、日本と中国は千年近くうまいことやってきたじゃないか。私たちはもっと分かり合える。だから、乾杯しよう」
 宴もたけなわになったところで、主役のいちばん上の子供(も、すでにけっこうな歳はであるが)が僕にこんなことを言った。会の趣旨にそぐわない突然の言葉に僕は驚いた。が、それを口にせずにはいられないとは、常日頃からよほど強く思っていたことなのだろう。彼の想いを受け取れる場に立ち会えたことは、存外の喜びであった。中国語の乾杯は、文字通り、杯をきれいに飲み乾す意味であるという。生まれ持った酒の強さに、このときほど感謝したことはなかった。彼らは酒の強い人を信頼してくれるから。
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 S先生にはそのままカラオケに誘われる。店内の様子は日本のカラオケ店と大差ないが、中国語よりも韓国語や日本語の歌が多く流れていた。この地の若者たちは熱心にそれらを歌うのであろうが、スクリーンに映し出されるジャニーズ事務所の顔を見て、なんだか複雑な気分になる。端末のなかも最近の歌ばかりだ。そういう最近の歌を知らない僕は、ようやく見つけた「津軽海峡冬景色」を熱唱して成都最後の夜を過ごすという、よくわからないオチがついた。

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