2014年11月29日土曜日

「自殺者たち」素描

 ある夏の日のことだ。

 その日は不思議な日で、朝に府中の駅から電車に乗ると、僕が陣取った吊り革の目の前でT先生が口を開けて寝ていた。寝ているところを見ていましたと言うのも忍びないと思ったので、先生が僕に気付かずにいたのを幸いに、新宿で少し距離をあけてから、声をかけた。

 「なに、同じ電車だったの?」
 「そうみたいです」
 「仕事?」
 「ええ。今から西新井に」
 また、ゆっくり、改めて。山手線の階段の下で別れた。

 西新井でひとり生徒を教えてから渋谷に向かい、演奏会のためのリハーサルを済ませ、夕刻。小腹を抱えながら食うか食うまいかでうろうろ悩み、各駅停車を一本見送った井の頭線の下北沢でK君が同じ車両に乗ってきた。僕を見るなり、彼は目を丸くした。
 「どうしたのこんなところに」
 僕が電車に乗っていることがK君には珍しい光景らしかった。
 朝もT先生と同じ車両になったことを告げると、「そんな偶然もあるんだねえ」と感心していた。僕とT先生が出会うきっかけを作ったのが、このK君だった。
 「ところでなんでそんなに日焼けしてるの?」
 「うちの近所に市民プールがあってね」
 「海じゃないんだ」
 「そう、近場でね。小学生たちと泳いでいるよ」
 奥さんが幼い我が子と帰省している盆休み。夕飯をあてに実家に顔を出したのに、K君は母親にすげなく追い返されたのだという。
 「今日はこの後なんにもないの?」…もちろん、何もなかった。

 仙川は小雨のあとに濡れていた。
 日が落ちて幾分涼しくなっても、もうもうとした湿気は執拗に肌にまとわりついてきた。K君が勧める「最近知った美味い店」には満席で入れず、僕たちは商店街を北に南に行ったり来たりした。どこかいい店ある?と聞かれても、そんなのは学生時代から仙川に通う彼のほうが詳しいだろう。
 「ちゃんとした人とは一緒に行けない店だから」
 と、名誉なのか不名誉なのかよくわからない理由をつけられて、見た目にも古びた大衆酒場の暖簾をくぐることになった。
  
 「最近はどんなの書いてるの?」
 僕は作曲中だった歌曲集の原稿をかばんに入れていた。それは自殺した文豪たちの遺書をテキストにしたもので、芥川龍之介と太宰治には曲を付け終わり、有島武郎の「濡れそぼちながら最後のいとなみをしてゐる」の部分を書いているところだった。
 僕にとって数少ない作曲の友であるK君に、僕は昔からよく楽譜を見せてきた。太宰の、変ホ短調から嬰ハ長調に転調した部分に、親の敵のようにつけられたダブルシャープを指でなぞりながら、彼は、うわあ、と言った。

 「大丈夫?」
 「なにが?」
 「さすがにイヤだよ」

 K君は笑っていたが、声に幾分かの本気が込められているのを、僕は聞き逃さなかった。そういうつもりはなかったのだが、なんとなく悪いことをした気がした。
 T先生と僕とが出会う前、K君とT先生は、ひとりの共通の親友を、それが理由で亡くしている。彼の脳裏によぎったのもそれだということを、僕は容易に推察できた。
 「大丈夫だから」
 このような場合、大丈夫だと言っても大丈夫じゃないと言っても、結局は心配されるものだ。
 僕はそれなりに、精神的な危機というものを何度となく経験している。世の中でなすべき仕事が終わったら、生きたい生きたいと願っても神が魂を攫っていくということを、僕はもう、なんとなく理解できている。逆に言えば、仕事が終わらない限りは死を願っても連れて行ってくれない。そう思っている。
 乾いた喉を潤すためのビールは、もう日本酒に変わっていた。

 「誰も『しまった』と思わないのが恐ろしい」
 この日の少し前に、ひとつの自殺が我々の社会を驚かせていた。と、僕の友人の医者がこんなつぶやきを書いていたのを僕は読んだ。この「しまった」と、漱石「こころ」の「私はまたああ失策つたと思ひました」の一節が僕のなかですぐさま結びついて、ちょうど良く声楽家と一緒に練習していたこともあり、あっという間に歌曲集のプランが立ってしまったのだった。
 「お前らそんなに自分は正しいと思って生きているのかよ」
 と、かの友人は怒りにまかせて書いていた。それは完全に同意できるものであると同時に、僕にはもう少し、別の意図が働いた。ただ、書くということの衝動性については僕も彼のことは言えまい。練習しなければならない楽譜が山積みになっているのに、僕はそれを忘れて、没頭した。
 実際、2週間とかからなかった。

 人として精神的に脆い、脆くない。そんなものは自殺と一切関係ないのだ。罪だの、逃避だの、反撃だの、社会として損失だったの。人の生き死にに社会からの目線でモノを言う前に、まずは帽子を脱ぎたまえ。と、僕は他ならぬ我々の社会に対し、思ったのだった。
 コレガ コレガ人間ナノデス
 人間ノ顔ナノデス(『原爆小景』)
 
 小鳥たちは時間のなかでも最も微妙な時間を感じとり、それを無邪気に合図しあつてゐるのだらうか。僕は寝床のなかで、くすりと笑ふ。今にも僕はあの小鳥たちの言葉がわかりさうなのだ。さうだ、もう少しで、もう少しで僕にはあれがわかるかもしれない。(『心願の国』)
「とうとう僕は雲雀になつて消えて行きます」
 原民喜の遺書をもって、僕は歌曲集のすべてを書き終えた。彼は小鳥たちの言葉を理解したいがために死んだのだろうか。それとも、それが理解できてしまったがために、向こう側の世界に往ってしまったのだろうか。僕は自分の曲にも関わらず、ひとつの旋律となった「あなたを祝福する心で一杯のまま お別れ致します」の言葉に自分でショックを受けた。こんなにも優しい言葉は、願わくは一生、誰からも受けとりたくはない。受け取らないままでいたい。
 でも、本当に我々の社会に必要なメッセージは、これなのだ。
 そしてそのメッセージをもっとも効果的に伝えられる媒体であると信じていればこそ、僕はこの分野の音楽に、昼間に昇る月のように、ぺらぺらと張り付いているのである。
  
 その日はまだ、僕は民喜に辿り着いていなかった。
 2本3本と徳利を空けて、すでにすっかり酔っていたK君に、「いい加減お願いですからちゃんとしてください」と説教され、苦笑した。思えば彼には数年おきに説教され、僕はそのたびにいつも苦笑している。僕は彼から説教されるのが、彼からぷりぷり怒られるのが、心の底から嬉しいのだ。ちゃんとしなきゃなあ、と、そのときは思う。いや、いつも思っている。ちゃんとしているつもりでもあるのだが、困ったことに、僕は根っからの、ちゃんとできない、どうしようもない人間らしかった。

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