2013年4月23日火曜日

戦争の時代

 旧国鉄川越線。武蔵高萩という駅には、かつて貴賓室があった。
 今では現代的な駅舎に建て替わったが、近くには旧日本陸軍の航空士官学校があり、これも現在では航空自衛隊の入間基地になっている。ここを昭和天皇が行幸する際に、武蔵高萩の駅が利用されたのである。
 最後の行幸は、ウィキペディアによると1944年3月20日のことだという。昭和10年生まれの父は当時、尋常小学校に通う学童であった。その日は朝から学童一同が校庭に並んで正座して、ずっと地面に額をつけていたと父は記憶している。幼い父にとって記憶から抜けない一日になったのだ。とにかく寒い日で、同級生のなかには小便を漏らす子もあった。その子は先生たちに竹刀で殴られていたという。
 いくら近いとはいえ、尋常小学校と航空士官学校はそれなりに距離がある。子供が耐えきれずに頭を上げる瞬間を、もぐらたたきのように殴りつけていた先生たちも、陛下がいつ駅に着き、いつ士官学校をご覧になられ、いつ皇居へとお戻りになられるのかを知らなかった。だからその日は、丸一日校庭に座ることになったのである。
 さすがに辛かったと父は言っていた。
 ミミズが横切るのを眺め、アメフラシを食され、クラゲの新種を発見するほどの根っからの自然好き、学者肌である陛下が、これを良しとされていたのだろうか。知らされなかったか、何も言えなかったかのどちらかだろうと思う。
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 僕は昭和53年の生まれだから、もちろん戦争を知らない。
 ただ、昭和10年と15年の両親を持っている。10歳になろうかという父が寒い校庭で一日土下座していた翌年には、5歳を迎える母が防空壕で空襲を耐え忍んでいる。小学生のころは、自分の親だけ歳を食っている参観日を恥ずかしく思っていたが、そんな直接の経験を実の親から聞けて良かったと、今では思う。
   * * * 
 母は湾岸戦争の映像をテレビで見ながら呻いていたのを思い出す。
 きっと、幼いころの記憶が蘇っていたのだろう。
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 職人の祖父は、家族で食べるぶんの小さな畑をこさえていた。
 戦中。この畑では、時折り野菜が盗まれていった。
 これ以上盗まれたらたまったもんじゃない、と、祖父と祖母は夜中に畑を見張ることにした。すると、彼らはやってきた。動く人影に「何しやがる」と叫ぶと、よくよく見ればそれは軍人の家族であった。主人がお国のために命を投げ出して戦っているんだから野菜くらいよこしやがれ。と、逃げるでもなく開き直ったという。このように言えば引き下がってくれる前例もあったのだろうが、祖父も祖母も気性の荒い人であったから、自分の畑が荒られた上に開き直ったのが癪に触る。何ぬかしてやがんだてめえこの野郎。と、ふたりで木刀を持って追っかけ、殴りつけたというのだから、つくづく恐れを知らない家系である。
 戦いは、避ける方が得策であるし、賢く、利益も多い。だが戦わなければならないときは戦わなければならない。集団と戦うには集団が必要である。集団を組織するには人数が必要で、この人数を寄せ集めで確保すれば、そのなかには人格者もろくでなしも混ざるのである。祖父と祖母は、このろくでなしのほうと、自分の「国」を守るために戦ったに過ぎない。上気した顔で「とっちめてやった」と凄む祖父を、父は記憶している。
 これが、一介の職人とその家族が眺めた戦争の時代であった。
 軍人の家族は家族で、たいして大きくない畑にも盗みに入らなければならないほど、腹をすかせていたのだろう。そんな時代の何が美化されているのかを僕は知らない。
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 祖父の木刀には、父も一度頭を割られている。相手が軍人の家族であろうが、自分の息子であろうが、癪に障れば殴る。という、実に単純明快な基準で木刀を持っていた。僕の記憶のなかの祖母はすでに寝たきりだったが、若い頃は祖父と同様に戦闘的だった。料理好きの祖父と料理好きの祖母は、文字通りの肉弾戦で台所を奪い合っていたのだ。とは言え、仲が悪かったのかと言えば、祖父と祖母には子供が8人もいる。悪いわけがなかった。きっと祖父と祖母は、ライバルの関係だったのだろう。
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 僕の好きな詩人、土橋治重の詩に「お館様は出陣中」という一篇がある。
 少し長いがこれを引用し、彼に僕の思うところを代弁してもらおう。
 ぼくは甲府の躑躅ヶ崎の館によく行ったが
 いつも武田信玄は留守だった
 ある日、やっとつかまえた
 肩にひどい怪我をしていた
「川中島ばかりに出張っていてすまぬ。こんど謙信と有無の一戦をとげたが、家人どもはみな死んでしまって、わしひとりで戻ってきたところでな…謙信もひとりで帰りおったわ」
 信玄は声もなく笑った
 ぼくは歴史よりも深刻なその事実に驚いた
「肩の傷は痛みませんか」
「うむ、たいしたこともないわ」
 信玄は夏草の上に
 体をながながとのばした セミの声が
 血のにじんだ包帯の上にしきりに降った
 それから二十五年
 会社を停年になったぼくは
 また館を訪ねて行った
 信玄はやはり留守だった
 カラスが五、六羽松の木にとまっていて
「お館様は、ずっと川中島に出陣中でございます」
 と口々に言った。
 ぼくはその執念深さにふたたび驚いた
 そんなに長く戦ったとは
 どんな本にも書いてはいない
 いったい、信玄は謙信と
 どれくらい戦ったら気がすむのであろうか
 彼の人生にはぼくと違って
 停年というものがないようであった
   * * *
 甲州出身の治重にとって、信玄はもちろん郷里の名将である。
 塩を送る関係の2人が描かれたこの詩の主題は明らかだ。
 それを誤解なく理解するためにも、再び彼の文章を引用しよう。
「私はそれまでの詩の作法を思いきってほおった。新しくスタートしなければならなかったのだ。しかし、どうしたらよいのか。詩友の一人もない私はひとりで悶々とした。そのうち、やっと糸口を見つけた。じぶんとひとの心に、生きているしるしのあたたかい灯を、ともすよりほかにないと思った。友人の多くは戦場で死に、生きていた連中は、敗戦の荒廃のなかで、人もじぶんも信じない目つきで、僅かの食物に群がっていたのだ。」
   * * *
 大昔のアラブでは、部族間で戦争をする際、実際に剣を交える前に詩人が詩をうたって戦った。という話を、なにかの本で読んだことがある。それで勝敗が決することもあったというのだから、良い時代の戦争だと思う。人と人とが争うことが避けられないというのなら、これくらいしなければ文化的とは言えない。「ペンは剣よりも強し」である。
 国を守るとは、文化を守ることだ。文化を守るとは、自分たちの言葉をたいせつに守ることだ。古のアラブの詩人たちのように、命をかけるに値することなのだ。人間の、もっとも誇らしい仕事のひとつなのだ。
 詩で勝負がつかなかったら南無八幡大菩薩と那須与一が扇の的を射抜き、それがしは何者であるのかを大声で名乗ってから戦う。いまの時代、自分もきちんと名乗り、相手が名乗っている最中には攻撃しないというルールをいじらしいまでに守っているのは、日曜朝の特撮戦隊ヒーローの敵役ぐらいである。
   * * *
 今の社会をざっと見渡して言いたいことは、要約すれば三点。
 一点目に、自ら挑発をする者となるな。扇の的を射よと挑発した平家の最期を見よ。二点目に、崖っぷちに立つ者とともに崖に立つな。二人も乗れば崩れ落ちる。三点目に、自分たちの言葉をたいせつに守らずして、他に何を守るべきだというのか。言葉が残っていればどんな状況からもやり直せる。言葉が消えたら、それはもう、僕たちである理由がない。
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 ただ僕は、国があろうとなかろうと俺は畑を耕し生きていく。という人の、子孫である。 

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