2013年4月27日土曜日

展開部

 芥川也寸志が著書「音楽の基礎」で、音楽の大前提として「静寂」を取り上げて論じている。赤い紙に赤いクレヨンで絵を描いてもわからない。環境と同化してしまう音は音楽には聴こえない。音楽を音楽として把握するには、ある程度の静かな環境を必要とする。まったくその通りとしか言いようのないことだが、当たり前すぎるからこそ、忘れがちにもなる。彼が生きていた時代よりも街ははるかにうるさくなった。電話をかければ一方的に(たぶんその人が好きな)音楽を聴かされる。僕はあれに辟易している。
 出会う環境こそ違えば、なかなかいい歌じゃないか、と、思ったかもしれない。しかし、かけた途端にその曲の途中から一方的に始まって、その人が出るまで一方的に聴かされて、その人が出たら一方的に切れる。辟易する。どんな歌にだって多少なりとも作り手の気持ちは乗っていよう。そんな人の気持ちの、もっとも不遜な使われ方だと思う。
 でも、その金で生活している人がいるのだと思って、僕は耐えている。ただ、こんな方法に頼らずとも歌手たちが生きていけるほうが、もっと良い。
   * * *
 このような音楽の無惨な「切り取られ方」は、傍線部の文章について次のアからオのなかで作者の気持ちにもっとも近いものを答えなさい、という、僕たちが子供のころに散々見てきた、あのありがちな国語のテストの設問に似ている。
 「恥の多い生涯を送って来ました。」だから僕の人生は誇らしいものです、なんて答える人は、まずいない。もしも文学に要点があるのなら、作家は最初から要点だけを書けば済む。だらだらと小説にする必要もない。作者の気持ちにもっとも近いものを答えなさい。これは絵画や音楽を鑑賞するうえでも悪い影響を与えていると思う。
 人がもっとも把握しやすい芸術は、文学である。その次に美術ときて、音楽となる。視覚を鍛えるには文章が役立ち、聴覚を鍛えるには文章と視覚の両方が手がかりとして役に立つ。だから文学史は美術史に先んじ、美術史は音楽史に先んじる。これが逆になることは、ほぼない。一瞬、ベートーヴェンが美術の先に立ったと言えるだろうか。
 外国語の習得をことごとく失敗している僕が偉そうには言えないが、たとえば外国語の習得も、この順を追っていくしかないだろう。でなければ、我々の国の歴史における漢文や蘭学の発展というものもありえない。
 だからこそ文学はもっとも長寿の芸術でもある。紀元前のギリシャ悲劇も我々は読める。だが、それがどのように発音されていたのかを確かめる術はない。エジソン以来の録音媒体の登場で変化するかに思われた聴覚も、流行の廃れは早いことが、もう明らかになっていると僕は思っている。
   * * *
 要点とは、つまり点である。
 この点の位置を説明するには、座標が必要となる。恥の多い生涯を送って来ました。その恥の点とは、xyのどの位置にあるのか。人によっては、生涯ぐだぐだに女に依存していることが恥かもしれないし、人によっては、生涯まったく女っ気がないことが恥かもしれない。両者同じ程度に感じている「恥」であっても、人の芝生は青いのだから、この場合、他方にとって他方は、むしろ羨ましい生涯である。
 つまり点がひとつ打たれただけでは、それは点であって、点以外ではないのだ。赤地に打たれた赤い点なのか、青地に打たれた赤い点なのか、白地に打たれた赤い点なのか。そしてそれは縦と横のどの位置に打たれたのか。緞帳が開いたら、もうホセの刃がカルメンに刺さっていた。物語は始まることなく終わっているのである。
   * * *
 作者の気持ちに近いものを答えなさい。この影響はどこに出ているのか。聴衆は作品の要点を答えるために音楽を聴いているのか。そんなわけはない。
   * * *
 どんな聴衆も、音楽の感想は音で抱いているものだ。
 どんな大衆酒場の酔っぱらいが、あの歌のここの文句が良いという場合にしたって、やはりこの酔っぱらいも、音楽を音で記憶している。
 数年前のある日。いつものように僕は酒場で知らないおじさんに絡まれて、彼は1時間ほど僕の隣でバラライカ、バラライカと歌っていた。おかげで僕は久しぶりに会った友人とまったく話が出来なかったのだが、この彼のバラライカには、本来のバラライカの意味はない。彼はバラライカという単語を手がかりに記憶の音を引っ張り出しているのである。バラライカという単語を忘れていたら、彼はハミングででも歌ったはずだ。
 歌詞は出てこないけど、あの歌は良いよね。そんな酔っぱらいもいる。あの歌の何が良いのか。音である。僕たちは食べたものも、言葉ではなく味覚で覚えているはずだ。多忙に長距離の移動でようやくありついた立ち食い蕎麦は美味い。刺激物を大量に食った直後に痺れた舌で神田の「やぶ」を食っても、そんなに美味くはあるまい。
 青春時代に出会った一曲は、いつまでも、自分の青春時代を回顧させる一曲となる。あのおじさんは、そんな彼の素晴らしい青春時代に、たぶんどこかの素晴らしい歌声喫茶で、その歌のあるべき位置にあった音に出会って感銘を受けたのだ。そこがたまたまバラライカという歌詞だったのだ。彼が経験した素晴らしい時間のながれをバラライカという歌詞に象徴させて、僕に教えてくれていたのだ。
 このような意味において、聴衆はどこまでも正しい。聴衆が切り取る音楽には罪はない。僕を辟易とさせる電話のあれは、むしろ提供する側の罪なのである。
   * * *
 こんな教訓を彼は僕に与えてから、さんざんハイボールを飲んで歌ったあげく、僕の飲んだ焼酎ロックの金も払って「ごちそうさん」と上機嫌で去って行った。と、うまく提示部冒頭の素材がかえってきたところで、この話は再現部に続く。

2013年4月26日金曜日

ぬか漬けを食う


 精一杯に働いて、朝まで飲む。それが若き母の日常だった。
   * * *
 僕は母方の親戚と、ひとりも会わずに育ってきた。母の両親は高度経済成長の途上であの世の人になっていて、母の弟は戦後間もなく、幼くして死んでしまった。要するに誰もいなかったのだ。早死の家系なのだと母は言っていたが、母の祖母(つまり僕の曾祖母)は白寿を得てから死んだ。昭和15年の母の時代の祖母なのだから当時としては珍しい長寿で、死んだときには大往生を祝って赤飯が炊かれたという。
 母の父(つまり僕の祖父)は、毎日飲んではちゃぶ台をひっくり返して暴れる、絵に描いたような飲んだくれだったという。戦後は立川の基地で米軍相手に仕事をしていたそうだが、そこで手にした金をすべて飲んでしまった。周囲の反対を押し切って従妹と結婚したのが祟ってか、母は盲人として生まれていた。障害者に対して社会は昔よりも現代の方がはるかに優しい。めくらの子供なんて世間様に見せられたもんじゃねえ、と、幼い母は押し入れに閉じ込められ、近所の子供からは石を投げられた。
 しかし八王子の盲学校に通い始めた母が、一家の家計を支えるようになった。
 当時の盲人の代表的な仕事として、按摩がある。学校に通いながら按摩を学び、客を相手に商売して、金が手にできる。それが大事な資金となった。灯火管制の暗い部屋で飯粒が優雅に泳ぐ雑炊を食ってしのぎ、空からはB29の爆弾が降りそそぎ、御名御璽の玉音がラジオから流れたあとの立川で、母は妹を背中に負ぶって働いた。
   * * *
 その妹が、行方不明なのだと母は言っていた。
 あんにゃろうめは恩知らずで頭にくらあ。と、母は思い出すたびにぶつぶつ言っていたが、ミレニアムを過ぎた3年目にして、この妹(つまり僕のおば)とようやく会うことができた。開口一番「姉ちゃん今までどこほっつき歩いてたんだに」と言って、僕はびっくりした。聞けばおばさんは一度も多摩を離れずに、ボランティアで母校の盲学校(おばさんも盲人だ)の事務仕事を手伝ったりしていたのだ。なんのことはない、行方不明だったのは僕の母のほうだったのである。
   * * *
 母は(外資のブランドショップが占拠する前の)青山通りに住んでいて、オリンピックと都電の消滅とを見送った。東急のホテルで按摩をしながら生計を立て、土地柄、芸能人や有力者の客が多く(人気絶頂の坂本九なども、お得意様のひとりだった)立派な店でよく酒も飲ませてもらっていたという。高価な洋酒の筆頭がジョニ黒の時代。更新した按摩師の免許には美濃部知事の署名。母は腕利きの稼ぎ手であった。父と見合いをし、結婚して仕事を辞めると職場に告げたときには、上司と相当な戦争を繰り広げたらしい。
 母は全盲ではなく弱視なので、まったく見えないことはない。ただ、いつ見えなくなるかはわからないという不安と戦っていた。稼ぎを捨ててでも結婚を選んだ母の目は、今でもまだ見えている。本を鼻にくっつければ、読める。点字はかえって読むのが面倒らしい。「あたしゃ一人が気楽でいいね。目がつぶれねえと前もって分かってりゃあ一人でいたのになあ」と、時折りぼやく。「でも、そしたらおまえさんは生まれてねえか。」こりゃまた失礼いたしました、と、古いギャグも忘れずに付け加えるのである。
   * * *
 今では埼玉の奥地で毎日寝転がっている母の半生は、書けないことも多い。
 五味川純平から「小説のモデルになってくれないか」と母は口説かれていた。あったことをそのまま書けば物語になるほど壮絶な半生だった。だが母は、大事な親友を案じてそれを断わった。おまえさんも生まれたからやっぱし断わってよかったよ。世間様に知られるとはおっかねえことだかんな。僕が生まれると(大好きだった酒も含めて)それまでの生活をすっぱり断ち切った。だから僕も、母から聞いた話をこれ以上は書くまい。
   * * *
 母の父については、母の思い出を聞いて知っている。
 母の妹については、聞くまでもなく直接会って知っている。
 しかし、母の母については、母は思い出を語ろうとしない。「どうしょもねえクソオヤジ」と違って優しい人だったことぐらいは漏れてくる。それ以上のことが何も分からない。
 ただ母は、母(つまり僕の祖母)のぬか床を受け継いで持っていた。どんなに飲んで、ぐでんぐでんに酔っぱらって帰ってきた日も、かかさず樽をかき回して、野菜を漬け続けたぬか床であった。煮物の日でも、カレーの日でも、ぬか漬けは毎日の食卓にかならず乗っていて、子供の僕は当たり前のようにそれを食べていた。面倒臭がりの母でも、このぬか床を父に触らせた姿を見たことがなかった。
 小学5年の夏。母は体調を崩して入院した。
 僕は父の実家に預けられ、従兄姉と遊んで昼を過ごし、夜は父が迎えに来た。入院は一か月ほどかかった。母は大の薬嫌いで、処方された薬をこっそり捨てていたのだ。こんなもん飲むくれえなら治んなくったってかまあしねえよ。母は小さな声で、しかし頑なだった。
 そんな不真面目な態度でもなんとか「釈放」され、「娑婆」に帰ってきた母は、いつものように漬物をしようとぬか床の樽の蓋をあけた。父も母も入院などはじめての経験で、ぬか床のことなどすっかり忘れていたのがいけなかった。塩揉みした3本のキュウリを手にした母から、悲鳴ともため息ともつかない声が漏れた。
 だめんなっちまってらあ。
 母はしゃがみ込んだまま動かなかった。蛇口からは水が流れ、流しの下の扉は開いたままだった。四つ足のブラウン管だけがにぎやかだった。しばらくして、母は死んだぬか床を、木の樽ごと黙って真っ黒いビニール袋に包み、その口をへたくそにガムテープでとめた。入院する前よりよほど具合悪そうに、母は小さく背中を丸めていた。
 こうして、母しかしらない祖母の歴史は、ごみの日に火葬に出された。
 「あーあ、ギョメーギョジ。」
 縁側にサンダルを放った母がさばさばと言った。
 「なあにそれ?」
 「さあねえ、あたしゃあんだかしらねえけどよ」ただ、おふくろさんがよく言ってたんだわ。煮物焦がしたときなんかによ、ギョメーギョジってよ。僕は大きくなって勉強するまで、「ギョメーギョジ」の意味を勘違いして、覚えていた。
   * * * 
 さ。だめんなっちまったもんはしょうがなかんべ。母は新しい米ぬかを近所の米屋からもらってきて、ぬか床を作った。はじめて漬けたキュウリは塩の味しかしなかった。あんま美味いもんでねえな。母は笑っていた。そんなことはないよと言いたかったが、僕の顔も父の顔も正直だった。家族三人、馬鹿みたいに顔をつきあわせて、かりかりぽりぽりと青臭いキュウリを齧っていた。
 この新しいぬか床を、父もいっしょになってかき回している今日である。

 【ぬか漬けのつくりかた】
 
 ぬか床 1樽
 野菜  適当
 
 (1)漬ける
 (2)洗う
 (3)食う

 ぬか漬けは漬けた野菜の経験がそのまま味になっていくので、いろいろな種類の野菜を漬けたほうが味が複雑になっていく。味の秘訣は、「継続は力なり」

2013年4月23日火曜日

戦争の時代

 旧国鉄川越線。武蔵高萩という駅には、かつて貴賓室があった。
 今では現代的な駅舎に建て替わったが、近くには旧日本陸軍の航空士官学校があり、これも現在では航空自衛隊の入間基地になっている。ここを昭和天皇が行幸する際に、武蔵高萩の駅が利用されたのである。
 最後の行幸は、ウィキペディアによると1944年3月20日のことだという。昭和10年生まれの父は当時、尋常小学校に通う学童であった。その日は朝から学童一同が校庭に並んで正座して、ずっと地面に額をつけていたと父は記憶している。幼い父にとって記憶から抜けない一日になったのだ。とにかく寒い日で、同級生のなかには小便を漏らす子もあった。その子は先生たちに竹刀で殴られていたという。
 いくら近いとはいえ、尋常小学校と航空士官学校はそれなりに距離がある。子供が耐えきれずに頭を上げる瞬間を、もぐらたたきのように殴りつけていた先生たちも、陛下がいつ駅に着き、いつ士官学校をご覧になられ、いつ皇居へとお戻りになられるのかを知らなかった。だからその日は、丸一日校庭に座ることになったのである。
 さすがに辛かったと父は言っていた。
 ミミズが横切るのを眺め、アメフラシを食され、クラゲの新種を発見するほどの根っからの自然好き、学者肌である陛下が、これを良しとされていたのだろうか。知らされなかったか、何も言えなかったかのどちらかだろうと思う。
   * * *
 僕は昭和53年の生まれだから、もちろん戦争を知らない。
 ただ、昭和10年と15年の両親を持っている。10歳になろうかという父が寒い校庭で一日土下座していた翌年には、5歳を迎える母が防空壕で空襲を耐え忍んでいる。小学生のころは、自分の親だけ歳を食っている参観日を恥ずかしく思っていたが、そんな直接の経験を実の親から聞けて良かったと、今では思う。
   * * * 
 母は湾岸戦争の映像をテレビで見ながら呻いていたのを思い出す。
 きっと、幼いころの記憶が蘇っていたのだろう。
   * * *
 職人の祖父は、家族で食べるぶんの小さな畑をこさえていた。
 戦中。この畑では、時折り野菜が盗まれていった。
 これ以上盗まれたらたまったもんじゃない、と、祖父と祖母は夜中に畑を見張ることにした。すると、彼らはやってきた。動く人影に「何しやがる」と叫ぶと、よくよく見ればそれは軍人の家族であった。主人がお国のために命を投げ出して戦っているんだから野菜くらいよこしやがれ。と、逃げるでもなく開き直ったという。このように言えば引き下がってくれる前例もあったのだろうが、祖父も祖母も気性の荒い人であったから、自分の畑が荒られた上に開き直ったのが癪に触る。何ぬかしてやがんだてめえこの野郎。と、ふたりで木刀を持って追っかけ、殴りつけたというのだから、つくづく恐れを知らない家系である。
 戦いは、避ける方が得策であるし、賢く、利益も多い。だが戦わなければならないときは戦わなければならない。集団と戦うには集団が必要である。集団を組織するには人数が必要で、この人数を寄せ集めで確保すれば、そのなかには人格者もろくでなしも混ざるのである。祖父と祖母は、このろくでなしのほうと、自分の「国」を守るために戦ったに過ぎない。上気した顔で「とっちめてやった」と凄む祖父を、父は記憶している。
 これが、一介の職人とその家族が眺めた戦争の時代であった。
 軍人の家族は家族で、たいして大きくない畑にも盗みに入らなければならないほど、腹をすかせていたのだろう。そんな時代の何が美化されているのかを僕は知らない。
   * * *
 祖父の木刀には、父も一度頭を割られている。相手が軍人の家族であろうが、自分の息子であろうが、癪に障れば殴る。という、実に単純明快な基準で木刀を持っていた。僕の記憶のなかの祖母はすでに寝たきりだったが、若い頃は祖父と同様に戦闘的だった。料理好きの祖父と料理好きの祖母は、文字通りの肉弾戦で台所を奪い合っていたのだ。とは言え、仲が悪かったのかと言えば、祖父と祖母には子供が8人もいる。悪いわけがなかった。きっと祖父と祖母は、ライバルの関係だったのだろう。
   * * *
 僕の好きな詩人、土橋治重の詩に「お館様は出陣中」という一篇がある。
 少し長いがこれを引用し、彼に僕の思うところを代弁してもらおう。
 ぼくは甲府の躑躅ヶ崎の館によく行ったが
 いつも武田信玄は留守だった
 ある日、やっとつかまえた
 肩にひどい怪我をしていた
「川中島ばかりに出張っていてすまぬ。こんど謙信と有無の一戦をとげたが、家人どもはみな死んでしまって、わしひとりで戻ってきたところでな…謙信もひとりで帰りおったわ」
 信玄は声もなく笑った
 ぼくは歴史よりも深刻なその事実に驚いた
「肩の傷は痛みませんか」
「うむ、たいしたこともないわ」
 信玄は夏草の上に
 体をながながとのばした セミの声が
 血のにじんだ包帯の上にしきりに降った
 それから二十五年
 会社を停年になったぼくは
 また館を訪ねて行った
 信玄はやはり留守だった
 カラスが五、六羽松の木にとまっていて
「お館様は、ずっと川中島に出陣中でございます」
 と口々に言った。
 ぼくはその執念深さにふたたび驚いた
 そんなに長く戦ったとは
 どんな本にも書いてはいない
 いったい、信玄は謙信と
 どれくらい戦ったら気がすむのであろうか
 彼の人生にはぼくと違って
 停年というものがないようであった
   * * *
 甲州出身の治重にとって、信玄はもちろん郷里の名将である。
 塩を送る関係の2人が描かれたこの詩の主題は明らかだ。
 それを誤解なく理解するためにも、再び彼の文章を引用しよう。
「私はそれまでの詩の作法を思いきってほおった。新しくスタートしなければならなかったのだ。しかし、どうしたらよいのか。詩友の一人もない私はひとりで悶々とした。そのうち、やっと糸口を見つけた。じぶんとひとの心に、生きているしるしのあたたかい灯を、ともすよりほかにないと思った。友人の多くは戦場で死に、生きていた連中は、敗戦の荒廃のなかで、人もじぶんも信じない目つきで、僅かの食物に群がっていたのだ。」
   * * *
 大昔のアラブでは、部族間で戦争をする際、実際に剣を交える前に詩人が詩をうたって戦った。という話を、なにかの本で読んだことがある。それで勝敗が決することもあったというのだから、良い時代の戦争だと思う。人と人とが争うことが避けられないというのなら、これくらいしなければ文化的とは言えない。「ペンは剣よりも強し」である。
 国を守るとは、文化を守ることだ。文化を守るとは、自分たちの言葉をたいせつに守ることだ。古のアラブの詩人たちのように、命をかけるに値することなのだ。人間の、もっとも誇らしい仕事のひとつなのだ。
 詩で勝負がつかなかったら南無八幡大菩薩と那須与一が扇の的を射抜き、それがしは何者であるのかを大声で名乗ってから戦う。いまの時代、自分もきちんと名乗り、相手が名乗っている最中には攻撃しないというルールをいじらしいまでに守っているのは、日曜朝の特撮戦隊ヒーローの敵役ぐらいである。
   * * *
 今の社会をざっと見渡して言いたいことは、要約すれば三点。
 一点目に、自ら挑発をする者となるな。扇の的を射よと挑発した平家の最期を見よ。二点目に、崖っぷちに立つ者とともに崖に立つな。二人も乗れば崩れ落ちる。三点目に、自分たちの言葉をたいせつに守らずして、他に何を守るべきだというのか。言葉が残っていればどんな状況からもやり直せる。言葉が消えたら、それはもう、僕たちである理由がない。
   * * *
 ただ僕は、国があろうとなかろうと俺は畑を耕し生きていく。という人の、子孫である。 

提示部


 あなたと僕が、とある居酒屋で酒を飲んでいるとする。
 もつの煮込みを食べながら、僕は焼酎を飲み、あなたはハイボールを飲んでいる。僕はタバコを立て続けに吸いながら、僕は僕の興味に従って、例えば演歌の発祥について饒舌に喋っているはずだ。
 ところで会話というものは、ふとしたきっかけで話題が戻ることがある。
 「だからさっきの話じゃないけれども、そもそも自由民権運動というものは」などと僕が喋り出すころには、僕たちが食べたもつの煮込みは、すでに胃袋のなかにある。焼酎もハイボールも肝臓で分解されつつあり、タバコはくたくたの吸い殻になっている。これらが元の姿に戻ることは二度と無い。
 ソナタ形式の再現部というものは、このようなものである。
   * * *
 最近の若い人は、再現部をコピペしちゃうんだよね。と、N先生が酒を飲みながら嘆いていた。変えたくならないのかね。ならないんだろうな。僕が思うに、再現部という名称が良くなかった。他に何が良いのかと聞かれても困るけれども。
   * * *
 すでに消して久しい文章のひとつに、僕が中退直後、とあるレッスンにもぐった際の様子を描写したものがあった。僕は作品を講師の彼に見てもらい、(もう変更のかなわない作品であったが)有益なアドバイスを受けた。最後は彼の最新作の楽譜を、音源を聴きながら、教室にいる一同で見た。
 そこには繰り返し記号が書かれていて、「ようやくこれを書く勇気が持てたんだよね」と彼は言った。書いちゃいけないものなんてないんだ。生徒たちは深く頷いていた。繰り返し記号を書いたところでソナタ形式になるわけじゃあるまいし。生徒たちはくすくすと笑い出した。この「ソナタ形式になるわけじゃあるまいし」の一言に、しかし僕は強く引っ掛かった。前後の文章に矛盾があったからだ。書いてはいけないものはない。ただしソナタ形式を除く。普通に解釈すれば、そのようになる。
 僕は当時、純粋に現代音楽の未来を信じる少年であった。
 だから、自分の作品にもソナタ形式を選択する少年ではなかった。それはもう終わった時代のものだと信じていた。「自分の美意識がソナタ形式を選択していない」のだとも思っていたのだが、しかし彼の一言で、それがわからなくなった。作曲家には何を書いても良い自由がある。そこには、ソナタ形式を書く自由も含むべきだ。そうでなければ自由とは言えない。僕は本当に自由なのだろうか。
 だったら一度、大真面目に試してやろうじゃないか。
 僕がソナタ形式に取り組むきっかけは、そのようなものであった。
   * * *
 まったくの蛮勇であった。僕はこれを人には勧めない。
 少しずつ音楽史をさかのぼっていくことで、僕は断絶を思い知った。
 少し前に「7分間で見る音楽の歴史」なる動画が話題になったが、伝統は本当に、あちらへと流れていったのだと思う。
 特に、第二次大戦を境に、強い断絶を感じた。直感なので根拠は無い。
 だがそれは、こちらの分野の世間的な人気の高い作家の作品でも感じた。例えば、ショスタコーヴィチ。彼の音楽は残っていくのだろうが、人々からソ連と戦争の記憶が薄れていくなかで、代表作の看板は変わっていくだろうと思う。織田作之助の小説のように、彼本人を知らないと読み解けない秘密が多すぎるからだ。
   * * *
 単純だが根本的な問いとして、そもそもソナタ形式は二部形式なのか、それとも三部形式なのかという疑問がある。日本で音楽の教育を受けた者のほとんどは三部形式と答えるのではないかと思う。提示部、展開部、再現部という3つの名称が深く刷り込まれている。
 しかし、それらがきれいに三等分された実例など、見つけるのは不可能である。
 ハイドンやモーツァルトのソナタの後半が繰り返されているのも、展開部と再現部のふたつの部分を繰り返していると解釈するのはやはり不自然で、二部形式の後半を繰り返していると考えるほうが自然である。
 諸井三郎のベートーヴェンの分析を読むと、彼は初期の作品の展開部の短さを個性の未発達として捉えているふしがある。「展開部が小さいという特徴」「展開に対する技術的な弱さ」などという表現が、それである。後期から逆算すればそう言えなくもないのかもしれないが、ベートーヴェン自身がハイドンやモーツァルトから逸脱していった後の成果を初期に当てはめるのは、無理がある。
 では、ソナタでは何が提示され、何を展開し、何を再現しているのか。
 いちばん極端な例のひとつをあげればベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第10番であろうか。何も提示してないし、何も展開しておらず、何も再現していない。そう言っても構わないほどの抽象世界である。この曲については別の機会にもう一度書きたい。
   * * *
 この話はもう少し分けて語らなければならない。
 このソナタ形式の話の主題は、芸術音楽の作曲家はみんなソナタ形式で書くべきだ、などという話ではない。すべての形式に勝るものだ。などという話でもない。音楽という現象をもっとも聴衆に把握させやすい形式ではあるのだが、それでも、そんなことを言いたいわけではない。この話の主題は「自由」についてだ。作曲家は何を書いても良い自由を持っている。その自由とは何なのか。これを、少しずつ書いていこう。酒でも飲みながら。

2013年4月21日日曜日

餃子を食う


 僕は幼い頃から包丁を握っていた。
 代々、西澤家は男子厨房に立つ家系である。僕が生まれたときにはすでに祖父は往生していたので、父から伝え聞くところしか知らないが、祖父は祖母とよく「てめえ台所に入るなっつったろう」と、取っ組み合いのケンカをしていたという。川越・喜多院の門前の団子屋で丁稚奉公をした過去を持つ祖父であった。だから粉の扱いが上手く、祖父の打つうどんは評判だったと聞く。先日亡くなった父の兄も、GHQ占領下の米軍基地で包丁を握っていた人だった。
   * * *
 人が触ると、台所は微妙に変化するものだ。
 いつも手に届くところに置いてある菜箸やしょう油の位置が、なんだか微妙に変わるのである。世界のすべての夫婦も、元はと言えば他人である。「パパが料理を作ってくれるって」という家族サービスも、一日だけで終わるから許されるのであって、「片付けは私がやるから」というのも、あれは感謝というより、縄張りを荒らされたことに対する防衛本能が働いているのである。自分で片付ければ菜箸は元の位置に無事に収まる。
 たとえ縄張りをひっちゃかめっちゃかに荒らされても、この先ずっと旦那が料理を作ってくれるというのなら、そっくりそのまま明け渡すのもやぶさかではなかろうが、普通はそうはならない。3日も旦那が台所を荒らせば、いくら見た目をキレイに片付けようと、「あなた菜箸どこやったのよ」と、ケンカになる。
 祖父と祖母は、毎日の台所が桶狭間だったわけである。
   * * *
 その遺伝子を着々と受け継いだ父は、今でも台所に立っている。
 父はおよそ何でも自分で出来る人で、僕が小学生だったころは割烹着や体操着を入れる袋を家庭で縫ったものだが、それも我が家では母ではなく(母が盲人であるという理由もあるにはあるが)父が縫っていた。そしてそれは素晴らしい出来だった。若い頃はあまりに部屋をキレイにしていたので、女の人が寄り付かなかったそうである。
 これは楽ができるわい、と思った母が、めでたく妻になった。
 もちろん父にも仕事があるから、普段は母の料理であるが、母は面倒臭がりだった。(僕は母のこの血を強く受け継いだ。)盆や正月休みになると母は父に料理を任せていた。母は台所を自分の縄張りだとは思っていなかったようである。
 この手伝いを僕もしていたので、幼い頃から包丁を握っていたのである。正しい切り方、正しい左手の添え方。すべてこの頃に学んだものだ。
 盆の休みには、父は決まって餃子を作った。
 父の餃子は白菜ではなくキャベツである。父いわく、白菜は水が多くて餃子には不向きなのだという。そしてタマネギと、ニラ。これを2本の包丁を両手で持ってリズムよく叩くように切り続ける。狭い台所を埋め尽くすほど大きいまな板。その音が祭りのお囃子のように聴こえて、僕は好きだった。行水もできそうな業務用のボウルがあって、これに山盛りになるほどの野菜を切った。
 これがあまりに楽しそうなので、僕も父にせがんで2本の包丁を借りてまな板を叩くのだが、どうも父のように良い音が出ない。野菜が切れているのかどうかも分からない。結局、諦めて、とんとんとんと音の鳴る父の背中を眺め続けていたのである。
 すり下ろしたショウガとニンニクとごま油の匂いが漂ってくると、そろそろゴールが近いことがわかる。ひき肉とともに野菜が練り上げられていく。素晴らしい音楽作品はスコアを見ただけで美しいのがわかるように、この匂いだけで、美味しい餃子であることがわかるのであった。
 父の餃子の「ひだ」は芸術的であった。小麦粉を溶いた水をのりにして、あっという間にひだを作って餃子を閉じていく。僕は何度真似しても出来なかった。今では少しはひだを作れるようになったが、とても父のひだには敵わない。我が家には餃子が50個くらいは並べられるだろう大きな餃子鍋もあって、これにラードを溶かして焼いた。水と油が戦って、蒸気が木の蓋を伝って部屋に充満する。ぱりぱりと音を立てて口の中で崩れ落ちる皮を想像しては、腹と背中の皮がくっつくのである。
   * * *
 父は若い頃、新宿の中華料理店で働いていた。だからほんとうに、本物のプロの仕事であった。なんでも出来る父だったので、あっという間に、その店の主人よりも上手く餃子が作れるようになってしまった。家をキレイに保つ父だったから、身だしなみもまたキレイに整えていて、客の人気も高かったという。これがどうやら主人には面白くなかったらしく、夜、店でひとり野菜を切っていて、まな板に包丁を置いた瞬間に「てめえ刃物を俺に向けやがったな」と因縁をつけられたそうだ。てめえこそ何言ってやがんでい、と応酬し、そのまま店を飛び出したそうだ。
 僕は、料理上手と世渡り下手の遺伝子を、父から強く受け継いだ。
   * * *
 「誌面の写真をカラーで見たかった」という方のご要望に応じ、かるく一文を添えてレシピ集を月一回、ブログに載せようと思っています。とは言え次回はぬか漬け。レシピもなにもあったものではないので、悩ましいです。
 
 【餃子のつくりかた】

 キャベツ 半1個
 タマネギ 大1個
 ニラ   1束
 ニンニク ひとかけ
 ショウガ ひとかけ
 豚ひき肉 中1パック

 餃子の皮 適宜
 小麦粉  少々
 水    適宜

 ※下味
 しょう油 大さじ1
 ごま油  大さじ1
 ラード  大さじ1
 うま味調味料 少々

 (1)キャベツ、タマネギ、ニラをみじん切りにする。2本の包丁を使ってとにかく細かく切る。
 (2)餡を作る。みじん切りにした野菜に下味の調味料を入れ、ニンニクとショウガをすり下ろし、加え、白っぽくなるまで練り上げる。
 (3)餡を皮に包む。小麦粉を溶かした水をのりにして閉じる。ひだが入れられれば格好良いが、大事なのは肉汁を閉じ込めることなので、無理はしないこと。
 (4)餃子鍋またはフライパンにラードを溶かし、餃子を並べ、中火で少々焼く。コップ1杯程度の水を入れ、蓋をし、5分程度蒸し焼きにする。火は弱火に落とす。
 (5)蓋をとり、水気を飛ばして軽く焦げ目をつける。フライ返しで餃子をはがし、皿に盛る。
 (6)余った餃子は冷凍が可能。凍ったまま焼ける。

2013年4月20日土曜日

花房晴美室内楽シリーズ第6集<フランクの夜会>


 「あのへんの時代の音楽というものは、私はドラッグカルチャーみたいなものだと思っているんです」
 僕がたまたま座った席の斜め前にたまたま座った音楽評論家の谷戸基岩さんと喋っていて、彼はこのように言っていた。「尋常じゃない状態を良しとするのだから、本来、良い音楽になるはずがなくて。でも真面目に書いていた人たちは結局埋もれましたよね。」ちなみに昨日のプログラムノートは彼の執筆。「本当は私は(前回の)サン=サーンスのほうを、むしろ書きたかったんですが」と笑っていた。
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 ちょっとした縁があり、僕は花房さんのこのシリーズのために、いつもアンコールを編曲している。今回は「ミサ」のなかの一曲「天使のパン」をピアノ三重奏にした。
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 ところで、ピアノ三重奏を「作品1」として創作の幕を開ける作曲家といえば、なんといってもベートーヴェンである。野心に満ちあふれていて、ツンツンととんがった3曲つづりのセットである。フランクもまた、3曲のピアノ三重奏を「作品1」にして創作の幕を開ける。野心家の顰みに倣うのは野心家である証拠。どうやらピアノ三重奏というのは伝統的にそういう編成であるらしい。僕にもちょっぴり心当たりがある。
 実演を昨夜はじめて聴いた。相当、とんがっていた。
 fis mollのアンダンテで始めるという選択からして、とんがっている。オレ様はそこいらの馬の骨とは格が違うんだ、と言いたげな細かいアイデアで埋め尽くされていて、ついにFis Durになる最終楽章も、すぐにもホロホロと崩れてしまいそうな調なのに、問答無用でギリギリとネジが巻かれる。ピアノに乗った自分が空高く飛ぶためには、ヴァイオリンとチェロの弦を切る寸前まで強く張る必要があったのだろう。いいから黙ってオレ様を支えておれ。ということである。
 飛ぶ、というキーワードが出たところで、ドラッグという主題がここに循環するわけですが、彼のなかでの循環主題とは、作品を器用にまとめるためのものではなく、自分が飛んでも音楽が崩壊しないための最後の担保であって、行けるところまで行ってしまいたい自分を躊躇無く解き放つためのひとつのドラッグだったのだろう。ということが、昨日の演奏でよくわかった。金属のような輝きにまでギリギリと弦を張った徳永、藤原ご両人の頭上で、花房さんは存分に空高く飛んでいた。
 フランクの本当の姿をあばいた一晩だった。 (於・東京文化会館小ホール)

2013年4月19日金曜日

4月号「ロッシーニの餃子」補遺

 月刊「音楽現代」の連載が始まってからというものの、サイトのアクセス数がほんのりと伸びているようである。僕は(若干くどい顔と派手目な私服に反比例するかのように)地味な活動しかしていないものだから、おそらく僕の音楽をご存知の方も多くはないだろうし、読者の皆様が「こいつは何者なのだ」と、あのふざけた文章を読んでお思いになられ、検索してくださった結果なのだろうと思う。恐縮である。
 そんな方々に、あまり考えずに書いていた古い文章を読ませるのも忍びないと思い(それに、今後の連載で使えるネタを見られるわけにもいかないし)、長いこと放っておいたそれらを削除し、ここに新しいブログを用意することにした次第である。という趣旨の文章を前回の投稿でアップするつもりだったのに、ついつい別の記事を書いてしまったのも僕の性格の散漫さゆえなので、どうか何とぞご容赦ください。
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 さて、本誌「音楽を食う」は、ご覧になった方はすでにご存知のように、料理についても、テーマになった作曲家についても、さほど深くは触れていない。ロッシーニを知りたい人にはそのための本はすでにあるし、餃子を知りたい人にも同様に本がある。僕は音楽の研究者でも料理研究家でもなく、ただのひとりの作家であるので、それらの著者としてふさわしくないと思えるだけの自戒は持ち合わせているつもりである。
 作曲家と料理の関連は、初回「ロッシーニの餃子」にしたためた通りである。ロッシーニの美食がらみの事柄だけを書いていけば、とうぶんの原稿は埋まったことだろうし、(僕の力では探し出せなかったが)リュリあたりが毎日の献立日記でもつけていてくれたら、そしてそれを連載の記事にしたとしたら、それはそれで価値ある読み物にもなったことだろうとは思うのだが、その著者は僕ではないぐらいのことは分かっている。
 だいいち、僕自身がその話に興奮しない。
 どうにもあのご時世の豪華な食事は、僕の胃袋には重すぎる。食欲がそそられない。茶碗一杯のごはんとみそ汁と漬物があれば、僕の食生活は充分に成り立つ。作曲中はほとんど三食たぬきそばしか食べない。僕の場合、料理はあくまで人をもてなしたいからするものであって、ロッシーニのように、自分が食べる分のフォアグラやトリュフのために、作曲を捨てたいとはどうしても思えないのである。
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 ロッシーニは、なぜ作曲を捨てたのか。
 ロッシーニの人生はロッシーニの勝手なのだから、後世の僕がとやかく言うことでもないことぐらいは分かっている。かく言う僕の人生だって僕の勝手なのだから。でも、彼のあまり知られていない室内楽作品などを聴くと、天性の才能を見せつけてくるアイデアに満ちあふれているし、楽器の使い方にも学ぶべき点はたくさんあるし、彼は厨房に立たずとも何でもできる本物のシェフだったのに、悲しくなるのだ。どうしても、彼の価値がフォアグラやトリュフより低いとは思えないのに、彼のような音楽家が食ったら無くなってしまう「食」に走ってしまうだなんて。
 再評価の機運が高まっている現在とはいえ、彼をとりまく今日の悲しい現実は、しかし8割以上は彼自身の責任である。もしも作曲を辞めなかったら、彼は音楽史にとってさらに重要な作曲家になったことだろうと思う。
 同じようなことは、マリア・カラスにも言えるかもしれない。
 腹にサナダムシを飼ってまでしたダイエットは効果がなかったという話であるが、それはそうだろう。ただの寄生虫だから。しかし、「美」に対して執着を燃やしていた確たる証拠には違いない。事実、痩せ始めてから彼女の没落は始まるわけで、いろいろな憶測が様々に沸き立っているけれど、減量が彼女の没落の最大の原因だっただろうと思う。
 音楽家であれば、わずかな体重の増減が自分の音楽に与える影響を肉感的に知っている。僕でさえ知っている。いちばん痩せていたときは自分の腕の力を胴体が支えきれなかった。贅肉を贅なる肉とはよく言ったものである。ゴージャスな肉襦袢は音楽にどうしても必要なものなのだ。それに彼女だったら、ピーク時の2倍の体重があったとしても、舞台上ではしっかり肺の病で死んでくれただろうに。
 もっとも、彼女が「美」を選んでくれなかったら、見れなかった世界はあった。パゾリーニの映画「王女メディア」で「すべては終わったのよ」と吐き捨てる凄味は、カラスの他に誰が適当だっただろうかと言われると、思いつかない。でも、音楽史としては、やはり彼女には健康を保っていただいて、長寿を得ていただいて、老境の彼女にしか歌えない境地を遺してくれたほうが、よほどありがたかったのだが。
 されどカラスの人生は、カラスの勝手なのである。
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 閑話休題。
 「音楽を食う」についてであるが、これはひとつの確固たるコンセプトをもって今後も連載を続けていく。そのコンセプトとは、クラシック音楽の予備知識をまったく持っていない読者を笑わすための文章にすることである。
 幸い、イラストを担当している緒裡君は、僕の個展以外のコンサートらしいコンサートには一回も行ったことはないので、この彼をターゲットにすれば良い。ぬか床の樽に老いたブラームスを突っ込んだのは彼のアイデアで、つまり彼の属性も僕と同様に(黙ってさえいれば、実はアイドルのような顔立ちをしているくせに、残念ながら)お笑いである。なのでこちらも本気でボケることができるのである。
 クラシックの予備知識を持っていない読者があの雑誌を読むかどうかは知らないが、しかしクラシック入門編のような文章にする気は、全く無い。様々な音楽が現れては消えて、それでも残ってきた音楽、これからも残っていくであろう音楽はどうして淘汰されないのか(それは「面白いから」に決まっているのだが)。著者が勝手に選ぶ「聴きどころ」なんぞ誰が読んだって飽きる。人によって感性のツボは違うのだから当たり前だ。それよりも、これらの音楽の根元の部分を、いま生きている人間であれば誰にでも分かる言葉で書くことによって、表現したかった。
 そのために、料理は、ちょうど良い材料だったのである。
 当初は音楽雑誌に花を添えるちょっとした料理のレシピ集にするアイデアを担当のXさんも僕も持っていたのだが、どう考えても作曲家のレシピ集なんて誰も求めていない。現在のクラシック業界に必要な努力は、原液をうすめたジュースを量産することではない。むしろ、濃い玉露の一滴を、相手の顔色をうかがうこと無く黙って差し出すことにある。この音楽の魅力を、笑いのフィルターを通すことで、誰にも飲みやすい薄味のジュースにするのではなく、コテコテに濃いエキスにしようと思うのである。
 いざ始めてみると、これは予想していた以上にとんでもなく手間のかかる作業で、むしろレシピ集を書くほうが楽だったのだが、しかしそれは誌面でやることではない。僕が個人で料理教室を開けば良いだけの話である。そんな副業はいつだってできる。誰がなんと言おうと、ぬか床には毎日新しい空気をいれなければならないのだ。それを怠れば、ぬか床は、死ぬ。僕も、もう少しは暴れても良いのかもしれない。
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 ということで、このブログ上で注釈をはさみつつ、連載していきます。
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 本当は、「ビアードパパ」の店頭で売られているラスクを見て、ボツにした文章の使い回しはできないものかなあ、と思って、このブログを開設したことについては、くれぐれも内密の方向で。

2013年4月18日木曜日

「聴衆は正しい」ということ

 新聞を読まず、テレビも見ない生活を続けているので、僕は世情に疎い。
 TwitterとFacebookだけは自分の生存報告もかねて投稿しているが、これらのタイムラインもできるだけ目を通さないようにしている。だいたいは、画面上に見える範囲を一瞥して、終わり。このように情報を目に耳にしないよう極力心がけていても、しかし様々な人の噂は不思議と耳に入ってくるものだ。
 最近では、世間で佐村河内守氏の交響曲が話題であるという。
 テレビで特集を組まれたとのことで、彼の交響曲は破竹の勢いで売り上げを伸ばしているという。人から聞くまで知らなかった。この作品について、会う人ごとに感想を求められるのだが、申し訳ないことに僕はまだ一回も、断片すらも聴いていない。聴いていないので感想を述べようもない。多くの音楽家たちの発言を見聞きする限り、彼らのなかではあまり評判は芳しくないようである。これも、なにしろ現物を聴いていないので、どの程度信用して良いものかは図りかねている。
 ただ一つ。まだ作品を知らない僕ですら、彼の仕事を評価できる点がある。
 それは、交響曲という名の作品を、売ったことだ。
 ついこの間まで、通俗の副題がついていないベートーヴェンの交響曲ですらテレビに流れなかった現代日本で(のだめブームのころは、まだ僕もテレビを見ていた)生きている日本人が交響曲を書いて、それが世間で売れたのだから、これは朗報である。「もっと優れた作品」を列挙して反論している人もいるが、まず、生きている日本人が交響曲を書いている事実が世間に広く浸透しなければ、それらの「優れた作品」も世間に顧みられることはあるまい。作曲家たちはもっと彼に感謝したらいかがかと思う。
 クラシックファンをのだめファンに出来た「のだめ」と比べ、のだめファンをクラシックファンには出来なかったクラシック業界の二の舞としないためにも、彼の成果を大事に活かしたら良いと思う。

 僕は、おそらく、この業界の誰よりも社会の底辺と親しく交わってきたと思う。
 そんな僕は、大衆酒場に行くと必ず知らない人に絡まれる星の下なので、その都度、自分の身上を説明する必要に迫られる。そこでかくのごとしと申し上げても、(まず僕の見た目がクラシックと縁遠そうなことに笑われるのは当たり前のこととして)「クラシックって今でも書いている人がいるの?」と驚きとともに返されるのが、普通だ。これからはこの説明が省けるのだから、なんともありがたい話である。
 さて。この驚きのあとに続く会話は、およそ2つのパターンに分類できる。
 ひとつは「オーケストラとかも書けるの?」と訊いてくるパターン。そんな彼は、僕が「書ける」と答えると「かっこいい」と素直に目を輝かしてくれるので、一杯ごちそうしたくなってくる。特殊技能と思われていることは、それがどんなに彼に縁の遠い世界のものであっても、酒場では尊敬の対象となるのである。
 もうひとつは、クラシック音楽そのものに疑問をふっかけてくるパターン。
 「音楽とは感動させるためにあるんでしょう?」
 「クラシックって学問になっちゃってるからダメなんじゃないの?」
 「それって自己満足なんじゃないの?」
 彼にとって、クラシック音楽は、堅苦しくて、退屈で、つまらなくて、ミイラを拝んでいる宗教のように見えているのだ。こちらも美味しく酒が呑みたいので聞き流すことにしているが、こちらの酒量とあちらのしつこさが掛け算されると、そうもいかなくなってくる。
 「もしも人を感動せしめる精神がこの世に存在するとすれば、それは人を感動させようなどという甘っちょろい精神性などというものをかなぐり捨てるところからしか生まれ得ません。音楽の大なることに感動するのは聴衆よりまず演奏家であり作曲家なのです。そして音楽から受け取ったものをそのまま聴衆に伝えるには身につけるべき課題は多く、献身的に学究の徒に徹して音楽を研究しなければならず、そこに自己満足など生じる余地は無いのです。」
 だなどと、ついつい冷静に言ってしまう。
 当然、さらに絡まれることになって、後悔する。
 ただ、彼が言いたいことの中身の、そのまた奥のほうの中身は、僕だって汲み取れなくはないのだ。彼があまりにもろれつの回らない舌でくだを巻くからイライラしながら返してしまうだけで。若者たちが衝動的に見よう見まねでギターを持ちたくなり、化粧をしてライヴハウスの舞台に立ちたくなるような現象が起きなきゃ、音楽として嘘だろう。言葉を変えて喩えれば、彼はそのようなことを言いたいに違いないのだ。たしかに、ウォレットチェーンをじゃらじゃら言わせながら東京文化会館にオペラを観に来る若者を、僕は見たことが無い。

 でも、モーツァルトもシューベルトも、ほんとうは今の僕より若いのだ。

 古典か現代か。古くから続く芸能の類いには、かならずこのような問いが付いて回る。
 立川談志も、かつて落語の枕でこのようなことを語っていた。現代人にも分かりやすくするために現代の要素を投入しすぎて、もう古典には戻れなくなったことを彼は嘆いていた。現代音楽もまた、現代人にとって聴きやすく、また弾きやすく書きやすい形にしたがって変化してきたという観点で顧みる必要があろう。
 しかし、だからこそ、古典というものは更に顧みられなくてはならないのである。
 古典というものは、誰にも登れない至高の極みゆえに残ったのではなく(誰にも登れない場所を誰がどうやってそれと認めることができるのか)、共感性のカタマリだからこそ残ったのであって、自分のことを棚に上げて言う文句は快感だ、などという枕草子は、実に千年も残ってしまうのである。
 お金をうまく稼ぐ方法だの、恋愛をうまくやっていく方法だの、アーティストが生き残るための方法だのと、マニュアル本の類いに満ちあふれている昨今ではあるが、これだって今の世に始まったことではなく、江戸の本にはむしろ沢山あった。だが、金を得たところで自由にはならないことを人は本能的に知っている。ゆえに、より多くの自由を与えてくれるものを、人は本能的に遺していく。それが今日に揃う古典の結果である。
 白州正子が著書「老木の花」で友枝喜久夫という能楽師を紹介している。芸術院会員でも人間国宝でもなく、晩年には視力を失ったので舞台にはちょっとした傷もあるが、いかにも能に縁遠そうな若いお嬢さんやジーンズ姿の若者、ネクタイ姿の会社員風を涙させて帰す。「ひたすら己を虚しうして稽古に打ち込んでいるからで、もはや芸というよりも魂の問題である」と、彼女は熱を込めて書いている。
 感動の強さゆえに業界に対する非難も苛烈で「能を難解なものにしたのはインテリが悪いので、世にもありがたい『芸術』に祭あげ、専門家がそれに乗っかって一種の権威主義を造り上げたのだ」とまで言う。僕はここまでの率直な物言いを避けるが、しかし、愛が人を滅ぼすこともあることを、僕は知っている。

 ずいぶんと話がずれた。
 佐村河内氏の作品が、どの程度にどれほどのものなのかを僕は知らない。ただ、音楽家たちの物言いを見聞きして非常に危惧を抱くのは、「聴衆は正しい」という大前提に則っている意見の少ないことだ。
 聴衆が感動したのであれば、それは感動したのであり、感動しなかったのならば、それは感動しなかったのだ。ただそれだけのことだ。僕だって、感動したと言ってくれれば嬉しいに決まっている。感動しなかったと言われれば、悲しいに決まっている。でもそんな僕の感情なんて聴衆のなかではまったく意味の無いことで、彼らが抱いた感想は彼らのなかで絶対的に正しいことなのだ。呑めない人に酒を出し、椎茸が嫌いな人に椎茸出汁の料理を出した僕のほうが、結局のところ、悪いのである。
 とは言え、僕は酒好きをやめられないし、椎茸だって嫌いにはなれない。これもまた僕のなかで正しいことである。なので僕は、来る日も来る日も、どんこを煮込むしかない。僕が腕を磨く努力を怠りたくないのは、椎茸好きの客に喜んでほしいからであるし、目を丸くして驚いてほしいからである。他の誰を後悔させてでも、彼らのことだけは裏切りたくないし、後悔させたくないからである。
 しかし、正しいということと、価値の有無とは別個の話である。ここを勘違いすると足を掬われる。足を掬われるのは聴衆だけではなく、演奏家も、作曲家もまた、同様である。自分の抱く「権威主義」をくすぐってくれるような物言いを好むようになれば、それは商売男に金を巻き上げられる哀れな女とたいして変わらない。クラシック音楽を活かすも殺すも、この業界の人々の「愛のカタチ」次第なのだ。
 この現状と問題を僕にまざまざと見せてくれた点においても、氏の仕事は、僕にとって価値があったと評価したい。この評価が良くも悪くも変わるのが怖いので、この先、僕はこれを聴くべきなのかどうか、とても迷っている。