2017年4月8日土曜日

楽曲分析で何が明らかになるのか

 これはM先生の受け売りですが、
 バラバラに鳴らした何の脈絡のもない音列を「ファです」「ド♯です」などと答えられる人、いわゆる絶対音感の持ち主が多いのは、幼い頃から教育を受けたアメリカ人、中国人、日本人だとか。
 ヨーロッパ人の場合、絶対音感なるものの傾向はそれほど強くありません。意外に思われがちですが、案外、意外でもなく、ここでは「何の脈絡もない音列」であるというのがミソで、彼らは音と音との関係性を聴きとる傾向にあります。ゆえに、関係が分断されると分かるものも分からなくなる。一方、日米中の音楽家の多くは、どの音も等価なものとして聴いている傾向にあると言えます。
 この事象の理由については、きっと、お詳しい方がいろいろ研究なさっていることと思いますが、ミルトン・バビットのようなトータル・セリー作家に端を発したピッチクラス・セットの考え方がアメリカで浸透していくのは、ある意味では自然なことだったかもしれません。

 ちなみに絶対音感の最たるは小鳥さんたちだそうで、確かにあの子たちはいつも決まったテンポ、正確なピッチで歌っています。僕の住まいの向かいにある小学校のマーチングバンドがモコモコしたヘ長調で『歓喜の歌』を練習してますが、もしも小鳥さんたちが原曲を知っているなら、子どもたちの吹くそれを『歓喜の歌』だと認識できないかもしれません。もっとも、僕も小鳥さんたちとはまったく別の意味で違う曲に聞こえていますけど、けっこう気に入っています。

2017年3月14日火曜日

4音からなる動機の可能性は何通り?

 とある酒の席での話。
 「作曲をしているあなたに言うのも失礼だけど、もう音楽の可能性は出尽くされてしまった。バッハのような天才など二度と現れまい」と、僕の目の前に座った老人が嘆く。僕の曲を聴いてそれを仰ったのなら批判とも皮肉とも受け取れたので、素直に「ごめんなさい」と言うこともできたのですが、僕はただ「作曲家です」と自己紹介をして彼の前に座っただけ。で、これを言われた。
 バッハの後に生まれたモーツァルトもベートーヴェンもショパンもブラームスもみーんな天才とは呼べないということですね。という嫌味は胸にしまいましたけれども、僕はこれを心ひそかに末法思想と呼んでいます。さぞかし現代音楽は濁世を象徴するものと聞こえてらっしゃることでしょうが、紀元前から続く音楽という営みを、もう少し信頼していただきたいところです。

2017年2月28日火曜日

音楽の冗談、の常談(5)IV. Presto

 「交響曲第41番『ジュピター』の最後はケルンの大聖堂のようだ」と、グラズノフは表現した。というくだりが、ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫・訳 中公文庫1986年)のなかにある。いろいろと問題のある本で、これからの世代が手に取る姿がまったく想像できないけれども、『ジュピター』がケルンの大聖堂とは素晴らしい喩えだ。こうした言葉までひっくるめて読まれなくなってしまうのは、あまりに惜しい。

 今でこそ、誰もがモーツァルトと言うけれども、19世紀の音楽家が今日の様子を見たら、どうしてあんな古いものが、と驚くかもしれない。リムスキー=コルサコフにとって百年前のモーツァルトはそうとう古い作家だった。あのシューマンにとっても、五十年前の音楽はそうとう古く、縁のないものだった。演奏機会も多くなく、グラズノフやワーグナーのようにモーツァルトを熱愛する作家も少なかった。彼らからすれば、二百年以上前の音楽を毎晩のように聴き、百年を超える音楽を「現代音楽」と呼んでいるわたしたちの姿のほうが、よほど滑稽に映るかもしれない。