2020年5月31日日曜日

かき消された声 ―ブルーインパルスに

 JR川越線・武蔵高萩駅には、かつて貴賓室があった。
 いかにも地方の国鉄駅といった風貌だった瓦葺きの駅舎も、今ではすっかり現代的なものに建て替わってしまって、往時の面影はない。そこから国道407号線に沿って車で20分ほど南下すると航空自衛隊入間基地がある。もともとは旧陸軍航空士官学校だったところだ。ここを昭和天皇が行幸した際、旧国鉄では最寄りとなる武蔵高萩駅が利用されたのである。
 陛下最後の行幸は、ウィキペディアによると昭和19年3月20日のことという。当時、埼玉県入間郡豊岡町(現・入間市)の学校に通っていた父は、その日は朝から校庭に正座して、ずっと地べたに額をこすりつけていた。学童一同ズラリと校庭に並んで陛下をお迎えしようというのである。
 底冷えのする厳しい寒さの一日だったそうだ。耐え切れなくなった子どもたちが頭を上げると、その瞬間、教師たちはもぐらたたきのように竹刀で殴りつけた。なかには小便を漏らす子もあった。陛下がいつ駅に着き、いつ士官学校をご覧あそばされ、いつ皇居へお戻りになられるのかを子どもたちが知るはずもない。ただひたすら、土下座するよりなかったのである。
 さすがに辛かったよ。と、今は亡き父は言っていた。
 10歳になろうかという父が校庭で土下座していた翌年には、5歳を迎える弱視の母が、そよそよと米粒の泳ぐ粥を食って腹をなだめながら、立川の防空壕で幾度かの空襲を耐え忍んでいる。湾岸戦争の頃はテレビニュースから流れるびゅうびゅうという弾薬の音を聞きながら苦しそうに呻いていたが、もしかしたら、幼いころの記憶が蘇っていたのかもしれなかった。

 生物学御研究所の雑草駆除を許さず、山に入ればミミズが地面を横切る様子を夢中になってご覧になり、道端に死んでいるガマを弔い、海に行けばアメフラシを生のまま食され、エビやクラゲの新種を発見するほどの根っからの自然好き、博物学者肌である陛下が、これらを良しとされていたのだろうか。知らされなかったか、何も言えなかったか。事実、ただひとつの聖断を除いて、陛下は生涯何も仰らないことに徹されたのである。新憲法下では「象徴」だったし、旧憲法下でも(僕の父が生まれる昭和10年までは)美濃部達吉の天皇機関説が正当な憲法解釈だったから。昭和53年生まれの僕が記憶するテレビのなかの陛下も「あ、そう」という素っ気ない返事しか口にしなかった。
 その代わり、陛下はいつもモゴモゴと口元だけを動かしていた。その様子が映し出されるたびに「よほど言いたいことが溜まっているんだろう」と母が同情するように言った。俺は神ではないと宣言せねばならなかった陛下には、ミミズやアメフラシくらいしか対等に付き合える友がこの世にいなかったかもしれない。崩御後明らかになった様々な記録からも、言いたいことが何も言えなかった陛下の素顔が垣間見える。行幸先の有力者たちの強すぎる忖度に、遠慮会釈のない万歳三唱の声に、陛下の御心はかき消されたのだった。

* * *

 戦後の新宿・渋谷を謳歌していた両親も、乱脈な都会で子育てなどできないと思ったのか、僕が幼稚園に入園するのに合わせて埼玉県狭山市に引っ越した。僕たちはそこで10年を過ごした。狭山市は父の故郷、入間市の隣にある。もちろん沖縄の深刻さとは比べ物にならないが、少年時代、基地は近くにあった。ゆえに、良くも悪くもそれを当たり前のこととして受け入れてもいた。
 庶民が基地が近くに住むと少々のメリットがある。「ジェット航空機特有の騒音が頻繁に発生することによるテレビ放送の『聴取障害』の緩和に資する」ため、NHKの受信料が半額補助されること。我が家の場合は母の視覚障害が別の半額免除の対象だったので、当時は受信料を払わずに済んだ。
 これは僕とは関係ないが、米軍ジョンソン基地時代に周囲に建てられた通称「米軍ハウス」が市民に良質な住宅を提供していたこと。細野晴臣が住んでいたらしい。それに、航空祭。七夕まつりと並ぶ市民にとっての風物詩だった。このときばかりは騒音も心地よく感じる不思議。
 デメリットは、その日常的な騒音が最大のものである。中学校の校舎は二重窓だったものの、機体が上空を飛んでいるときには教師の声がまったく聞こえなくなるほどだった。自衛隊員を親に持つ仲の良い同級生が転校していったのも悲しかった。
 
 僕が狭山で少年の時を過ごした10年間に、社会科の地図帳はめまぐるしく変わっていった。ベルリンの壁が壊れ、東ドイツと西ドイツはドイツになった。リトアニアが独立し、ラトビアとエストニアが続き、ソビエト連邦は独立国家共同体になった。冷戦が終わった。EUが発足した。今の人間が生きているうちは無理だろうなどと思われていたことが立て続けに起こった。
 いかがわしいビデオ屋だけが軒並み営業していた昭和64年の薄暗い正月を経て、昭和天皇が崩御した。美空ひばりが死んだ。手塚治虫が死んだ。山が動いて55年体制が崩壊した。1994年、村山富市が首相に就任するや声明を発表し、一夜にして自衛隊の違憲議論に終止符が打たれた。自民党と社会党が手を組んだ。ありえないことが立て続けに起きていた。
 世界は日々新たに更新され、新しい時代の新しい枠組みが試され、人類は希望ある未来に確かな足取りで向かおうとしていた。ミレニアムの祝祭の声が、9月11日に、青く澄み渡ったニューヨークの空の下で二棟の高層ビルもろともかき消されるまでは。

* * *

 5月29日。我が国のSNSはブルーインパルス一色に染まった。
 東京に住むようになって長らく忘れていたエンジン音が耳の奥で突然響いた。「医療従事者などに対する経緯や感謝を示すため」という理由は、まるで「太陽が眩しかったから」のように滑稽に映った。あの轟音は、むしろCovid-19の拡大に苦しむ人々の様々な不満の声をかき消すのに適している。からりと乾いた青空にたなびく飛行機雲の心地よさに抗うのも難しい。
 狭山や入間の市民たちが思いがけないブルーインパルスの出現に喜ぶなら、とても良く理解できる。今年は航空祭も諦めなければならないのかと考えていた頃だろうから。だが、先週の今ごろは自衛隊のことなど思い出しもしなかっただろう都内の人々が、日常的な轟音と付き合ったこともないだろう人々が、空を見上げ無邪気に喜びあっているのはいったい何だろうか。平成30年間を経て「ゆるふわ」な表現になったものの、寒空の校庭に土下座していた父たちと何が違うのだろうか。
 
 両者は、表現形こそ違えど、人々の考えを奪うという部分においてまったく共通している。人の考えの自由を奪うものという性質を一にしている。それは昭和天皇その人の尊厳を完全に奪い去った万歳三唱と同じものだ。砂漠に水を撒くような気持ちで強調するが、これは自由と尊厳の問題である。狭山の子として育った手前、僕も航空ショーは好きだ。が、好きという理由だけでは断じて受け取れない。自分の足を運んで仰ぎ見る航空祭のショーしか僕は受け取らない。喜ぶものを与え「さあ喜べ」と言うのは、端的に言って、暴力である。事前に別の喜びを奪われていれば尚更である。父たちを殴りつけていた竹刀が別のものと入れ替わっただけで、構造そのものにまったく変わりはない。殴る蹴るよりも、この構造こそが、暴力を強く定義するのである。

 この30年間で、不戦の誓いを立てたはずの我が国はイラクや南スーダンに兵を送った。「自衛隊を憲法違反という人たちがいる」という言い方で、終止符が打たれていたはずの自衛隊違憲議論が再び蒸し返された。様々な蓄積がかき消され、上書きされた。そうした知見の断絶ゆえか、今日の社会はまるで半世紀前を彷彿とさせるような反共戦線を熱心に構築している。
 だが、今日明日のうちに東京の街が戦火に陥落するようなことは、おそらく無いだろう。戦争は相手のあることだから、相手がいないとなれば戦争にもなりようがない。他国の手を煩わせなくとも、「獅子身中の蟲の、師子の肉を食ふが如し」の喩えどおりに、崩れるときは内側から崩れるのだ。我が国の蟲は全体主義である。右派や左派の類ではない。安倍晋三といった個人名でもない。
 父たちを殴りつけた教師その人ではなく、竹刀を持つ腕を動かしたもの。昭和天皇に遠慮会釈のない万歳をしたその人ではなく、彼をして万歳させたもの。ブルーインパルスを見ていた人たちではなく、彼らに空を見上げさせたもの。ブルーインパルスのクルーたちではなく、彼らを東京の空に飛ばせたもの。東京の空を飛んでくるようクルーたちに指示したその人ではなく、その結論に至らしめたもの。それらは小さな善意、小さな忖度、誰も悪いものとは思いもよらない、むしろ道徳的には良いとされているものの積み重ねだろう。それこそが、最終的に道を誤らせるのだ。

* * *

 悪業を積む者がさらに悪業を積むことがないように、一刻も早くその生命を絶たせてあげたほうが良い。そのように理論立て、殺人を善行と定義した団体があった。彼らは一国のなかに別個の「国」を作り自文化中心主義を満足させていた。その団体が起こしたテロ事件によって平成という時代が始まったことを思い出したい。「自分たちは選ばれている最高の存在である」と彼らは言っていた。現在の我が国はどうだろうか。「日本は凄い、外国人が称賛の声」と言っている我々は、いったい彼らと何が違うだろうか。我々は、平成という時代が終わる間際に、彼らの頸を刎ねたのである。
 結局のところ、我々は社会としてオウム事件を総括しなかった。深い洞察をする個人がいても、それらの洞察が社会として共有されたことはない。社会の総意としては、体よく忘れよう、というわけである。同胞すら「善行」として殺すに躊躇しない我々。半世紀前から犬猿の仲である共産党と公明党も、ともに、特高に殺された大切な人を思い出せるだろう。
 いわんや、である。アメリカでは、とある黒人が無実の罪で警官に殺された。時おなじくして、渋谷で、とあるクルド人が警官に暴行され首に全治一ヶ月の怪我を負った。僕はこれらのニュースを読みながら、ある一篇の詩を思い出していた。自分たちは選ばれている最高の存在であると思いたいがためだけに、人間という存在を蹂躙してきた我々の歴史を思い出させる一篇の詩だ。

辛よ さようなら
金よ さようなら
君らは雨の降る品川駅から乗車する

李よ さようなら
も一人の李よ さようなら
君らは君らの父母の国にかえる(『雨の降る品川駅』中野重治)

* * *

 祖父母は家族で食べる分の小さな畑を庭にこさえていた。戦中はその畑から野菜を盗まれることがたびたびあったそうだ。これ以上盗られたらたまったもんじゃない。夜中に見張っていると、果たして、彼らはやってきた。動く人影をよくよく見ればそれは近所でも知れた軍人の家族だった。「こっちはお国のために戦ってんだ。野菜くらいで何だ!」逃げるでもなく開き直ったという。このように言えば引き下がってくれる前例もあったのだろうが、祖父母とも気性の激しい人だったから、自分の畑が荒られた上に開き直られたのが癪に触る。「この野郎!」と木刀を手に追いかけ回した。父は上気しきった顔で「とっちめてやった」と凄む祖父の姿を記憶していた。

 ものの働きとして、権力は「自分」という存在を持てない。ゆえに権力が「自分」を持とうとしたときには、これを是が非でも斥けなければならない。権力が「自分」を持とうとするときに現れるのが「全体」である。野菜泥棒に「こっちはお国のために戦ってんだ」と言わせたものが「全体」である。ほんとうは自分にとって都合の良い「全体」でも斥けたいところだが、そこまで人間は誘惑に対して強くない。自分にとって都合の悪い「全体」が現れたときでも充分だ。プロテスト―抗議するということをしなければならない。人の自由を奪う「ものの働き」そのものに抗議するのである。

 恐れを知らぬ先祖を持つ者として、僕は、その血筋に、自らの自由意思で従いたい。

 それにしても、軍人の家族は家族で、それこそ亭主がお国のために命を投げ出し働いているというのに、たいして大きくない畑にも盗みに入らなければならないほど腹をすかせていたのだろう。そんな時代のいったい何が美化されているのか、僕にはまったく想像ができない。

2020年5月9日土曜日

南館病棟午後十時

 「生きながら死して、静かに来迎を待つべし」と云々。万事にいろはず、一切を捨離して、孤独独一なるを、死するとはいふなり。生ぜしもひとりなり、死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり、そひはつべき人なき故なり。(一遍上人語録)

 「…2時間ですか。」
 「ええ、今からそちらに向かうとすると、どうしても。」
 「わかりました。では、お見えになると考えても…」
 「急ぎます。が、つまりはそういう状況なんですね?」
 「かなり切迫しています。」
 病院からの電話を切り、急いで身支度を整える。約3ヶ月ぶりに乗る電車は東京のものとは思えないほど閑散としていて、いつもこれくらいならありがたいのに、などと思う。地下鉄、準急、急行と何度も乗り継いで埼玉に向かった。
 父が倒れたのは2月だ。母が言うには、自分ですべての入院支度を整え、自分で救急車を呼んでからそのまま昏睡したという。いかにも父らしい気がする。執刀医によれば6年前に挿入した人工血管が破れていたとのこと。あのときも長い手術だった。今回も8時間に及ぶ手術に耐えた。術後はすぐに意識を回復し、予後も順調で、リハビリさえ始めようとしていたところだった。

 「これがお父様のCTです。」
 小さな部屋に通され、すでに到着していた母とともに主治医からの説明を聞く。医師顔という典型があるかどうかは知らないが、僕の医師の友人に少し似ていた。
 「今日の晩から苦しさを訴えられて…。胃液を吐くことは度々あったんですが、今までは上手く吐けていた。ところが今日は上手く吐くことができなくて、誤嚥性肺炎を起こしてしまった。ほら、ここが白くなっているでしょう。それで、気になるのは白血球の値なんです。普通は炎症を起こすと上がるはずなんですが、お父様の場合、逆に下がっている。これは入院された当初の値。6,000くらいありますね。これが先程の値。1,400くらいしかない。」
 「…あの、つまり、主人は大丈夫なんですか?」
 医師の丁寧さと家族の焦慮とは、残念ながら、しばしば噛み合わない。
 「今日お呼びしたのは、この先の方針についてご家族で話し合って頂きたくて。今日は息子さんを待つことができましたが…」
 いつ何時、それこそ今にも、致命的な状況になるとも限らないわけだ。
 「私どももお父様の命を預かっているわけでして…たとえば人工呼吸器をどうするか、というようなことです。最近はコロナなんかでご存知でしょうけど、もちろん病態はもっと違いますけどね。人工呼吸器というのは太い管を喉に挿して強制的に呼吸させるものですから、辛いんですよ。回復の見込みがあるなら、それこそ息子さんのように若くて元気なら、やるべきだと私もすぐに言えるんですが…。ああ、簡単なパンフレットを用意してありますので、お母様に差し上げましょう。」
 医師の話など耳に入らない母は「とうとうだめかなあ」と独り言ちている。

 コロナ禍の渦中にある昨今、どこの病院も面会を基本的には停止している。無論、父の入院する病院もだ。緊急事態宣言の後は特に、ティッシュや入れ歯洗浄剤を持っていくという場合においても会えるとは限らない。僕としても、もし仮に自分が無症状のキャリアであったなら、とてもではないが責任を持てない。が、この日は面会を勧められた。
 「今は朦朧としてますが、意識はあります。私はご入院されたときからお世話させていただいているんですよ。だからね、お元気なお父様も存じているんですけど…」
 ふわふわとパーマを巻いた看護師が僕たちを案内しながら言った。夜ということもあってほとんどの照明は落とされている。そう言えば、かつては僕もこの病院に骨折で入院したことがあった。おかしなことに母もまったく同じ時期にこの病院に入院したのだった。苦笑していた父を思い出す。あの頃は院内の至るところに灰皿が置いてあったものだが、数年前に建て替えたらしい。暖色系の壁紙に、清潔な匂いがする。

 「西澤さん、ご家族の方がね、ご面会にいらしてくださいましたよ。」
 父はうっすらと目を開け、僕を見て、また閉じた。口を開け、はあはあと息を立てていた。隆々たる筋肉に覆われ、80歳近くになるまで病気らしい病気をしてこなかった頑強な父が、ほとんど骨と皮だけの姿となってベッドに横たわっていた。
 「鼻に挿しているチューブは胃まであります。もうお腹がほとんど動いていないので胃のものを便にして出せないんですよ。食べるのが難しいので点滴しているんですが、もう血管が脆くなってしまっていて。いま挿している腕の静脈が持てば良いんですが。昇圧剤も入れてますが、それでも血圧が100に届かないくらい。体重は37kgです。」
 「37キロ? おいおい、まるで小学生じゃねえか。」
 母が素っ頓狂なことを言う。
 「では私は席を外しますので。何かあったら呼んでください。」
 布団からはだけた父の脛をまじまじと見た。こんなに脛毛が薄い人だったのか、と、40年目の親子関係にして初めての発見をする。脛の肌色に比べて、まだらになった腕の青さがいかにも痛々しい。確かに、何度も何度も点滴を挿したのだろう。母が無言で父の額をさする。歳の割には、父の髪はしっかりしたままだ。
 すると、介護用ミトンに覆われた父の手が宙に浮いて、なにやら円を描きはじめた。一生懸命喋ろうとしているが、声になりそうにない。
 「どうしたの?」と母が訊く。
 「水飲みたいのかね。」
 父は横に首を振った。問題なく聞き取れているらしかった。
 「なに言ってんだか分かんねえだよ。」
 文句を言う母を脇に、父は顔をしかめた。不機嫌なのか、苦しいのか、困り果てているのか、泣きたいのかが判別できない顔をした。僕は不思議と思うところがあった。
 「手袋を外したい?」…父は頷いた。

 父は自分の弱みを見せない人だった。戦争中の教育を受けたからなのか、やたら辛抱強かった。母が僕を身籠ったとき、母とともに酒をピタリとやめた。以来一滴も飲まなかった。父は良き父であろうとした。自分の規範を自分で厳格に決めた。前半生の反省がそうさせたかも知れない。僕も全ては知らないが、いろいろあったらしいから。ただ、その激しい気性を理性で抑え込んでいるのを僕は幼心に分かっていた。父の自分自身への厳しさは、時として、良き息子になる才能のない僕にとって重荷になることもあった。
 僕と父は、家族とはいえ父と息子とでは全く違う人生があるという当たり前の事実に、何度も何度も向き合う必要があった。僕たち親子はその試練にあまり成功しなかったかもしれない。父が黙って耐えるという選択をしたから、必然的に僕も黙らざるを得なかった。父という役割を重んじるあまり、要するに、素直になれなかったのだ。僕は、自分のオペラ『瘋癲老人日記』第2幕の浄吉の台詞に、それを忍ばせた。父には慳貪に扱われる浄吉の想うところを想像し得たから、原作の台詞を拾うだけでは足りない彼の言葉を創作できたのだった。
 
 どうです父さん。少しは良いですか。…まったく強情っぱりで。父さん、少しは颯子を頼れば良いんですよ。僕たち腹を割って話すことのなかった親子じゃないですか。でも、案外、僕は父さんのことを分かってるつもりなんですよ。颯子のことだって分かってます。だから離婚もしないんです。とにかく、颯子にも良く言っておきますから。父さんも颯子のこと気に入ってるんでしょう? なんでもいいから颯子を使ってください。なんでもさせます。妙な方向かもしれないけど、これは一応、親孝行なんですよ。…それじゃあ、おやすみなさい。

 それが、いま、この時に至って、僕は初めて父の弱い姿を見た。良き父であるために息子の前で素直さを隠し通していた姿は、あれはあれでひとつの「素直さ」の発露だったのかもしれない、僕はずっと父を誤解していたかもしれない、と思い直した。確かに言葉は不自由しているかもしれないが、意識もあれば判断もできる人間にとって、両手の自由を奪われるとは耐え難い苦痛だろう。点滴の針を挿されるよりよほど根源的な苦痛である。「良き父」として振る舞うことに生きがいを見出した父は、人生の最晩年に、自らの屈辱的な姿を息子に見せなければならなかったわけである。

 「すみません、ミトンなんですが」
 「ああ、管を抜こうとしちゃうんでね、どうしても…」
 「ええ、分かってます。あの、できるだけ外してあげてくれませんか。夜は仕方ないと思います。理解します。でも、皆さんが起きていらっしゃるときは、できるだけ。それでもしものことがあっても決して責めるようなことはしませんから。お願いします。」
 ふわふわパーマの看護師にお願いし、ミトンを外してもらった。その瞬間に、父はいつもの顔に戻った。確かにもう話せないし、いろいろと自由は利かないままだが、あれやこれやと指先で指示する父には、いつも通りの父を感じた。鼻に刺さった管が邪魔だ、水が飲めないから喉が渇くと手が雄弁に語りはじめた。
 「看護師さんに無理をお願いしたんだから、頼むよ。それじゃあ僕は帰るから。」
 「……。」
 「なに?」
 「……。」
 ゆっくりと動く父の口元を注意深く読み取った。
 「『コロナ?』」
 父は頷いた。
 「コロナに気をつけろ、ということ?」
 父は再び頷いた。
 「ものすごく気をつけてます。家からも出ていないから、心配しないで。」
 父は握手を求めてきた。父の手は冷たかった。

 「あたしはぶっきらぼうだからさ。」
 「知ってる。」
 「お医者さんに色々言ったけど、本当はもうお父さんに触って欲しくないんだよ。」
 「分かってる。」
 「そう、分かってるの。まあ、とにかく気をつけて頂戴。」
 「気をつけてます。そっちこそ気をつけて。」
 母を見送り終電に乗る。すると、またすぐ病院から電話が掛かってきた。すぐさま僕が決断しなければならないことがまだまだいろいろとあるようだった。本人の意志が今も強くあるにも関わらず、僕が決めて本当に良いものだろうか。それは分からない。本当は父の命に責任など持てるはずがない。が、僕が決めない限りは医師たちが動けない。ほとんどそれだけのために、僕はいくつもの決断しなければならないようだった。
 いま、父の命は最晩年を生きている。
 僕は、生まれたばかりの僕を抱いた父の年齢になった。

2020年4月28日火曜日

世の中の呪詛を静かに受け入れながら ―パチンコ屋の話

 ――この語を説きたもう時、会の中に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の五千人等ありて、即ち座より起ちて仏を礼して退けり。所以は如何。この輩は罪の根深重、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。(法華経)
 むかし、僕はパチンコ屋にいた。
 お世辞にもスタイリッシュとは言えないオレンジ色の制服を着て、左耳にはインカムを嵌め、何万というパチンコ玉のカチカチとぶつかり合う音を聴きながら、狭い通路の真ん中に立っていた。どうしてそんなところに立っていたのか。もちろん、お金を稼ぐためだった。
 19歳の頃に書いた曲で初めて賞を取って以来、僕は音楽を書き続けてきた。が、自転車操業は長く続かない。音楽史上最も偉大な作曲家の顔をして、自分を理解しようとしない世間の低俗さを嘆きに嘆いた。が、そんなことをしても腹は膨れない。働くしかなかった。たまたま目にした求人に電話し、はじめて履歴書を書き、はじめて面接を受けたのも、すべて、お金を稼ぐためだった。
 パチンコのことなど何も知らない。当たると玉が出てくるらしい。それくらいのことしか分からない。正直にそう言っても採用してくれるのだから、世界は優しい。しかも研修中の身でありながら、「機械に強そう」というレッテルを貼られ、管理者用の鍵を預かることになった。僕の登用と前後して責任者が不慮の事故に遭い入院したためだ。10年20年と活動しても評価の定まらない作曲界との何という違い。しかし、機械に強いはずの僕はタイムカードの押し方を知らなかった。

 新しい環境で生活するには言語を覚えることである。保留、掛留、倚音、転調、V度調属九。そんな言葉はもう何の役にも立たない。必要なのは、確変、時短、等価交換、ドル箱、ゴト師、これらの言葉だ。それから、どんなに物珍しい風習を見ても驚かないこと。新台に入れ替えた朝には、どこからか見たことのない媼がやってきて、店内の床に小豆や大豆を黙々と撒いていく。節分と同じく、一種の験担ぎなのだろう。撒かれた豆は開店までに掃除しなければならない。
 朝の掃除が終わる頃には、その地域に住まう者たちが続々と店の前に並びはじめる。おはようございますと挨拶しながらひとりひとりの整理券を確認する。が、誰もが素直に応じてくれるとは限らない。日本人男性の名前としか解釈できない会員カードを「これ、わたしの名前よ」と差し出してくるフィリピン人妻もいれば、「おめえ、あたしの名前も知らねえのか?」と凄んでくる婆もいる。「なんだ新入りか。店長に訊いてこい。」…彼女は影で野村沙知代とあだ名されていた。

 ――私には名刺もない、と西村は思った。不良少年の仲間では、自分の情人を持たないことは、その男の劣性を意味する。成年に達して名刺を持たない迂闊さは、おそらく、その人間の決定的な貧困を意味するのだろう。(『憂鬱なる党派』高橋和巳)

 客が席に着くと、当たり始めるまでしばらく暇だ。店が違えば風景も違うのだろうが、僕の勤めた埼玉の小さな店は少しうるさい養老院のようなものだった。大当たりに興奮してコーヒーをこぼす老人。カネを使い切ったのに気付かず死んだように空打ちし続ける老人。ものの一時間と経たない間に、野村沙知代は脱いだ靴を右手に握って「こんな台なんざブッ壊してやろうかこの野郎!」と、台の中の八代亜紀に向かって叫び始める。
 スロットコーナーではひとりのマダムが黙々と打ち続けている。鋭角的で小さな顔に華奢な身体、只者ではない服装のセンス、少し鼻にかかった声、鳥の巣のような髪型、時折りブルブルと振られる頭。常連の彼女は僕の大学時代の恩師と瓜二つだった。電卓片手にバルトークを分析しているはずの人が、咥えタバコの灰をぼろぼろと床に落としながらスロットを打ち続けている。ビッグ・ボーナスを引いたときの彼女の満面の笑みは口角の上がり方まで師匠そっくりで、妙な気分だった。

 02年の日韓共催サッカー・ワールドカップ以降、にわかに、我が国では「嫌韓」という潮流が生まれようとしていた。当時は韓国のほうが歴史修正主義だったので、首脳たちの珍妙な発言をあげつらうのは簡単だった。市民の間ではパチンコが槍玉に挙げられた。朝鮮人の経営者たちが日本人からむしり取って国に上納しているのだろう、という噂が流れ始めた。ギャンブル依存症、それに伴う多重債務、警察の天下り、様々な社会問題も提起され始めた。
 日本人のパチンコ店経営者が彼らを悪し様に言うのは、理解できる。同じ商圏内でシノギを削ってきた間柄だから。僕の勤めた店の店主は北朝鮮系の人のようだった。時折り、事務所にはハングル文字で書かれたファックスが届いていたし、店長と専務が口喧嘩するときも日本語ではなかった。
 ただ、巷の噂とはかなり様子が異なっていたのは、彼らは人が良すぎて商売が下手だったところだ。常連客に悪い台を勧めるということが本能的にできないようだった。そうして、客が一人しかいないという状況に限って高設定の台に座られる。逆の場合もある。我らが野村沙知代は低設定の台に座ったときだけどういうわけか当たり続ける。ギャンブルという商売は経営するのも博打のようだ。事務所で頭を抱える釘師の姿をよく見かけた。給料が分割で支払われるのもしばしばだった。
 
 台の入れ替えは営業時間を終えた深夜に行われる。数十台の大規模なリニューアルともなると、アルバイトが全員揃ってこれを行う。パチンコ台は20kg、スロット台は30kgもある。それら新しい台を、ひとつひとつ手作業で入れ替えていく。なかなかの重労働なのだ。
 金属臭く、黒く煤けた手を洗いながら、制服を脱ぐ。アルバイトたちは極貧のバンドマン、売れない芸人、役者志望、漫画家志望、他に働くところのないシングルマザー、性格をこじらせた作曲家の顔に戻る。およそ外では交わり合う機会のないだろう面々が、世の中に横溢する「自己責任」の呪詛を静かに受け入れながら、24時間営業の牛丼屋に頭を並べた。

 「あのね、千円使ってみたの。」
 「毎度ありがとうございます。」
 「出てこなかったの。なんでかしら?」
 「何ででしょうねえ。」
 「やっぱり千円じゃ出ないのかしら。」
 「千円で出るときもあるんですけどねえ。」
 「美人には釘が厳しいのかしら?」
 
 マンションを経営しているというご婦人を裏口から見送る。いかにも路地裏という小道には昭和臭いおでん屋、商売っ気のない魚屋、おしゃれと名の付く婦人洋品店などが並んでいる。酒屋の店先では年金ぐらしの老人たちがビールケースを椅子にして、太陽の沈まないうちからワンカップを引っ掛けている。僕は心密かに、それを「オープンカフェ」と呼んでいた。

 「ねえねえ、お兄ちゃん、きょうは出てる?」
 「今日はあんまり出てないっぽいんですよ。」
 「お兄ちゃんも大変だろうから、ちょっと打ってってあげるね。」

 旦那がギャンブルでこさえた借金をギャンブルで返した上にマンションまで買ったという信じがたい経歴を持つこのご婦人は、盆も正月も関係なく毎日10万20万というカネを落としていく。珍しく4日ほど来なかったときがあったが、入院していたらしい。とあるアルバイトの子のミスに激昂して、命の次に大事なカネを奪い取るとは何事か、と、僕は彼女の愚痴を1時間近く聞いたこともあった。

 昔の話を懐かしく思い出しているのは、この時代にあって、彼らがどうしているのかが気になったからだ。店の人間とケンカして、会員カードをカウンターのハサミで切り裂いて、翌日からタクシーに乗って別の街のパチンコ屋に毎日通った、などという、どうしてもお金を使いたくて仕方のない、有閑を持て余している老人がいる。閉まってない店があると聞けば、たしかにそこに行くのだろう。それ自体は、もちろん、褒められたことではないが、彼ら彼女らの行動原理は、長らく観察してきた僕には理解できるところがある。僕だって玉で遊ぶ人間だ。パチンコの玉か音符の玉の違いだ。
 そして、その店には、その頃の僕が勤めているかもしれない。極貧のバンドマンが、売れない芸人が、役者志望や漫画家志望、他に働くところのないシングルマザーが、いるかもしれない。買った負けたと一喜一憂する老人たちの世話をして、子供の給食代にしているかもしれない。怖いだろう。この世の中の現状を理解していればいるほど、そうだろう。でも、どうにもならない。世の中の呪詛を静かに受け入れながら、働くしかない。
 
 僕が店を去る前夜、我らが野村沙知代氏と道端でばったり会った。
 「おまえがいなくなったら、あの店、どうなるんやろなあ。」
 と、寂しそうな顔をした。まもなく潰れることになるとは僕も予想していなかった。
 「あたしは口が悪いだけだから、気にするんじゃないよ。」
 それはすでに知っていた。根っからのギャンブラーで気性も荒いが、心の中の奥のほうに乙女心が眠っている、そんな人だ。彼女と会えなくなるのは僕も寂しかった。
 「すみません…。」
 「なにやってんだか知らねえけど、おまえにも人生があるんだろ。頑張れよな。ところでおまえ彼女はいるのか。うちの娘なんか、どうや?」
 
 それだけは丁重にお断りした。