2020年7月23日木曜日

青い森紀行 ~寺山・棟方、恐山

 鎌倉仏教のひとつ、時宗の開祖・一遍は、死のひと月前の朝、阿弥陀経を読誦ののち自らの所持する書籍等をすべて火にくべて、「一代の聖教皆尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言ったと伝えられている(『一遍上人語録』下巻・門人伝説106)。
 平安時代の僧・空也の金言「捨ててこそ」を座右の銘とし、「衣食住の三は三悪道なり」(同75)と断じ、住所を構えず、念仏に踊り、人々に札を配り続けること15年半、日本全国を遊行し尽くした果てに、摂津の地で斃れた。熱狂者の生涯だ。
 書籍を燃やした日の朝は気持ちよく晴れていただろうか。ぱちぱちと焚き木のはじけるほか何の音もしなかったかもしれない。言葉という言葉が一筋の煙となって青空に昇り、透明になっていく。空の高さと、ただ吹く風と。火の傍らに立つ、やせ細った晩年の僧…。超人めいた空海に勇猛な日蓮など、仏僧の物語は威勢の良いものも多いが、得体の知れない悲しさに胸がしめつけられるような思いをしたのは、一遍のものが初めてだった。

 若かりし僕に一遍を教えてくれた柳宗悦『南無阿弥陀仏』(岩波文庫)の巻末に、晩年、体が不自由になってから作られた短文集『心偈』が収録されている。カットは棟方志功だ。棟方と言えば、僕のような世代のものにとってはテレビに出てくる「変なヒト」という印象が抜けない。が、本書を読んで、数枚のカットを見て、考えが変わった。2018年、谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』をオペラに書いている際、棟方の装幀と向き合ったことで、はっきりと尊敬に変わった。
 今回、熱狂者・棟方を偲びに青森を訪れて、思いがけなくも、人が言葉として透明になっていくということを我が身のこととして感じる機会を得た。ゆえに(青森とは直接関係ない)一遍の話を引いたのだが、まずは、三沢市到着の朝から語る。

* * *

 閑古鳥の鳴く東北新幹線を降り、八戸で青い森鉄道に乗り換え、三沢駅へ。冷ややかな風が明らかに東京のそれと違う。腰に巻いた上着を解いて肩に羽織った。北欧の夏のようだ。
 人っ子ひとりいない駅ビルの階段には「ソーシャル・ディスタンスにご協力ください」という張り紙が見えた。人と会わずに引きこもってきた中年男が、夏休みに入る前の平日に、人のいない場所を個人的に旅行しているわけである。時節柄とは言え、複雑な心持ちにもなる。

 三沢に宿を選んだのは、もうひとり、寺山修司を偲ぶためだ。
 駅からタクシーで二十分ほど。小河原湖の岸に沿ってフェンスに覆われた道路が走っている。広大な米軍三沢基地と、ささやかな軍人用ビーチ、熱心に軍用機を撮影するカメラ小僧を見送ると、「市民の森公園」の一角に、渋谷の天井桟敷館を思わせる例の顔が壁面に埋め込まれた三沢市寺山修司記念館が見えてくる。人の気配がまるでなく、営業しているのかどうか気が気ではない。
 僕にとって寺山は羨望の対象だった。ひとつに、前衛やアングラがもっと社会の近くにあった時代の、その中心で、スターとして生きていたこと。どちらの言葉も消えてしまった今の時代にあってはもう望めない生き方だ。ふたつに、青森という故郷に強烈に根を張っていること。映画『田園に死す』における新宿駅前の使い方は、少なくとも、新宿の子である僕には発想できない。

 館内は主に常設展示室と特別展示室の二部屋。常設展示室中央には十脚ほどの机が並んでいる。各々それらの抽斗を開け、懐中電灯で照らしながら覗き見るという凝った作りだ。恥ずかしながら今まで知らなかったことも知れたのは収穫だった。カルメン・マキの歌は知っていても、五木ひろしの歌う古賀政男作曲の歌もあるとは知らなかった。

 特別展示室には「オリンピックと寺山修司」と題された企画が展示されていた。東京五輪に合わせたスケジューリングだったのだろう。今や世界は祝祭どころではない事態となったが、こちらの展示も祝祭の雰囲気とは程遠いものだ。なにしろ、『青少年のための自殺学入門』の原稿、カミソリで頸動脈を切り自ら命を絶った64年東京五輪マラソン銅メダリスト・円谷幸吉選手に触れた部分のそれが真っ先に目にとまる。備え付けのラジカセからは、修司が録音し繰り返し聴いたという「円谷あと80メートル!」の中継も流れていた。
 僕が6年前に書いた歌曲集『自殺者たち』は、当初、円谷の遺書を念頭に着想されたものだったのをふと思い出した。もっとも円谷の言葉はどうしても僕自身の言葉となるには至らず、芥川や太宰といった4人の本業作家の遺書に置き換えられたものの、夏目漱石『こころ』の、Kの遺体を発見する先生のくだりを曲集の最後に置く構成は、それこそ「自殺というよりは他殺であった」という寺山の評への連帯として、初めから企図されたものだった。
 寺山は羨望の対象だったから、自分に近いものを感じてはこなかったのだけど。思わぬ形で原稿を再読するうちに、僕の考えが変わり始めた。自分の内側にある寺山的なものを意識し始めた。

* * *

 棟方志功記念館へは、青森駅からバスに乗り平和公園の近くで降りる。友人によれば公園には幽霊がいるらしい。が、昼間なので、それらしきものは見えそうにない。
 校倉造りの特徴的な建物は残念ながら補修の最中だった。中はこじんまりとしていて広くはない。展示室に入ると、かの有名な『二菩薩釈迦十大弟子』が一面にあって圧倒される。この時期の僕にとっては幸いなことに、ここも、他の客が一人もいなかった。

 『瘋癲老人日記』をオペラに書いている際、棟方志功の装幀が僕のイメージを豊かに膨らませてくれたのを覚えている。顔の造作は詳細に描かれず、少し尖った乳首の目立つ颯子の姿。指先にある丸いものは体よく手に入れたキャッツアイの指輪なのか、しかしその手は来迎の印相のようにも見え、もはや通常の方法では叶えられない性欲と、死後の救済とが渾然一体となった影法師…なるほど督助にとって、あるいは谷崎にとって、女体とはこういうものであったのだろうことが、わざわざ冒頭で「(女体に限りなく近い)男体」である女形との記憶を明かしている理由が、文章だけでは伝わらない部分が、掴めたのだった。棟方にとっても、女体とはそういうものだったかもしれない。館内に展示されていた『湧然する女者達々』を観ながら、そんなことを考える。

 ニューヨークなど海外で手掛けた作品が展示されていたのが面白かった。Sの字などが鏡像にひっくり返っているのに愛嬌がある。なにより声が漏れたのは、ゴッホ『ひまわり』の模写2点。「わだばゴッホになる」の宣言どおり、ゴッホになるための訓練の痕跡というわけだ。が、御本尊ゴッホとは決定的に違う性格のある部分が油絵具となってにじみ出ているのを認めると、僕のなかに少しだけ嫉妬心が湧いた。僕はこんなに楽しそうに模写などできそうにない。
 
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 当地に暮らすYさんの力を借りて、十和田現代美術館を観る。常設展示はいずれも十和田にちなんだ題材が選ばれているとのことだったが、そのいずれも愉しい。美術館にしては珍しくガラス張りの建物で、街と作品が、日常と非日常が境目なく繋がっている。通りを挟んで向かいの敷地にも、ふっくらふくらんだ家、おばけ、草間彌生のかぼちゃが、町内の住人のような顔をしながら普通でございますとでも言いたげに佇んでいるのがおかしい。

 そのまま奥入瀬渓流に向かい、森林と川と滝とを楽しむ。雨のため流れが少し濁っていたが、それでも十分に美しい。界隈に一件しかない食堂で、南部名物牛のバラ焼きとせんべい汁を食す。

 十和田湖に着く頃には雨が止んでいた。ほとりに鎮座する十和田神社は今まで見てきた神社の中でもっとも静謐な佇まいを持つもののひとつだった。修験の霊場だったというが、霊場という言葉は確かにしっくり来る。湖岸には高村光太郎最後の作品『おとめ像』もあった。この日だけで、現代の美術と明治の人の彫刻をハシゴしたわけである。

 それにしても、ここでは芸術をいっそう身近に感じる。美術館の数が多いというのもあるけれど、それなら東京のほうが数は多いに違いない。だが、多いは多いのだが、ものの十数分で見に行けるのだが、身近という感じがしない。どうしても街に必要なものとして扱われているように感じないのだ。
 奥入瀬のホテルに寄り、敷地内にある岡本太郎の河童を拝見させてもらった。青々とした草に遊び、雨に戯れる像。誰もいないし誰も見ていない孤独な像なのだが、核廃絶を訴える『明日の神話』が通りゆくすべての人々にことごとく無視されている渋谷マークシティに比べたら、生き生きとして、幸せそうに見える。どうしてもここにいなければならない理由を感じる。

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 三沢から乗った快速しもきたは一両編成で、混雑しているというほどではなかったけれども、人はいた。陸奥湾を左手に北上し下北駅で降り、一日3往復しかないバスに乗る。換気のために窓を開けようにも、錆びついているのか、なかなか開かない。車内放送で民謡らしきものが流れているようだが、エンジン音が勝り、まったく聞こえない。急勾配の曲がりくねった山道に40分ほど揺られると、ほのかに硫黄の香りがしてくる。恐山である。

 本堂を参拝し、本堂裏から宇曽利湖を見渡す。色らしい色の無い一面の岩石だ。モノトーンの世界にはところどころに硫黄の黄色が差され、賽銭は青色に変じ、ピンク色の風車がそこかしこでからからと回り続けている。ただただ風が吹き、ときどきカラスが鳴き、温泉がふつふつと湧き出している。それより他に音らしい音は無い。
 大祭の日には様子も違うと思うが、観光客らしき人はあまりいない。石を手に持ち「やべえ」と声を上げている若者3人組は、もちろん興味本位の奴らだろう。腰の曲がった老婦と孫と思しき女児が供物の入った袋を手に参拝しているのは、地元の人だろう。そう見ると、地元の人々が三々五々と確認できる。新盆だからだろうか。中高生くらいの女の子3人組が、袋いっぱいの風車や菓子の類をお供えしながらおしゃべりしているのが風に乗ってくる。青森のアクセントは鳶や梟の歌うようで、美しい。

 八角円堂を覗く。名札を貼られたわらじ、スーツなどの遺品、名前を与えられるより前に旅立たなければならなかった命を記した木札が地蔵菩薩の脇にたくさん供えられている。ここにあるひとつひとつのものが、ひとつひとつの死であったことを思う。つい先日、僕もひとつの死を見届けた。ここにある死の数だけ悲しみがあっただろう。お地蔵様はたいへん素朴な立ち姿で、黙って合掌している。故人の冥福を祈る遺族の言葉を、ここで黙って聞き続けている。
 むしろ人々の悲しみが地蔵菩薩の姿として結晶化したのかもしれない、と思った。生きていく以上悲しみは避けられず、死んだ人を蘇らせることもできない。しかし、悲しみを悲しみとして共に受け止めてくれる存在があるだけで人はどれほど慰められるだろう。ただ人々の悲しみのそばにいる。その行いはどんな奇蹟よりも人を救う。その行いをするすべての者の名を象徴するものとしてのお地蔵様だ。千年前から、千年後も。すべての命が再び大地に飲み込まれるときも、お地蔵様は共にいてくれるだろう。この山にいるお地蔵様はすべて、そういう凛とした決意のある顔をしている。生まれてはじめて、宗教のものを見て「ありがたい」という心が起こった。

 興味本位の若者3人組はさっさと帰ってしまったようだ。参拝を終えた地元の人たちもほとんど帰ってしまった。門前の土産屋と蕎麦屋は昼過ぎには閉まった。静かな湖の岸に立つと、不幸な事故で失われた若者を偲ぶ碑があった。遺族や友人たちがこの碑にどれほど言葉をかけたことだろう。ふと、東日本大震災供養塔から鐘の音が聞こえた。鐘の音は山々に鳴りひびき、そして消えた。「一代の聖教皆尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」の言葉を思ったのはこのときだ。

 80年代から90年代にかけて、恐山はバラエティ番組であまりにも面白おかしく色付けされてしまった。大切な伝統文化を胡散臭いオカルトとして消費してしまった。僕もその世代に育ったから、実際に参拝するまでそういうイメージが頭の片隅にあったのを否定できない。そんな我々の、まったく恐るべき軽薄さに比べ、宇曽利湖畔のなんと静かなこと。なんという純粋な悲しさの結晶。
 死んだ人は言葉になるのだ。と、寺山修司は言った。すべての具象を離れ、抽象になっていく。透明になっていく。人は圧倒的な力で透明になってしまう。圧倒的な力に耐えられないからこそ、我々は時に軽薄にもなって自分を誤魔化しもする。その根源にあるのは、得体の知れない悲しさ。悲しみこそ人間の感動のなかでいちばん大切なものだと棟方志功は語った。悲しみを純粋に悲しみとして悲しむ強さに浴し、混乱の時代に住まう僕の心は、少し、軽くなったような気がした。
 
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 書ききれませんが、今はここまで。今度は弘前や五所川原にも、Covid-19が落ち着いた暁にはねぶたの季節にもお邪魔したいものです。なお、僕が2メートル以内の距離で接触したと言える青森在住の方は文中のYさん1人のみで、文中の奥入瀬の食堂(これしか選択肢がなかった)以外の食事は、もっぱらお弁当、駅自販機のパン、ドライブスルーのお寿司など。極力、人との接触をしないよう留意したことを書き添えます。さすがに味気なかったので青森食もリベンジしたいです。

2020年5月31日日曜日

かき消された声 ―ブルーインパルスに

 JR川越線・武蔵高萩駅には、かつて貴賓室があった。
 いかにも地方の国鉄駅といった風貌だった瓦葺きの駅舎も、今ではすっかり現代的なものに建て替わってしまって、往時の面影はない。そこから国道407号線に沿って車で20分ほど南下すると航空自衛隊入間基地がある。もともとは旧陸軍航空士官学校だったところだ。ここを昭和天皇が行幸した際、旧国鉄では最寄りとなる武蔵高萩駅が利用されたのである。
 陛下最後の行幸は、ウィキペディアによると昭和19年3月20日のことという。当時、埼玉県入間郡豊岡町(現・入間市)の学校に通っていた父は、その日は朝から校庭に正座して、ずっと地べたに額をこすりつけていた。学童一同ズラリと校庭に並んで陛下をお迎えしようというのである。
 底冷えのする厳しい寒さの一日だったそうだ。耐え切れなくなった子どもたちが頭を上げると、その瞬間、教師たちはもぐらたたきのように竹刀で殴りつけた。なかには小便を漏らす子もあった。陛下がいつ駅に着き、いつ士官学校をご覧あそばされ、いつ皇居へお戻りになられるのかを子どもたちが知るはずもない。ただひたすら、土下座するよりなかったのである。
 さすがに辛かったよ。と、今は亡き父は言っていた。
 10歳になろうかという父が校庭で土下座していた翌年には、5歳を迎える弱視の母が、そよそよと米粒の泳ぐ粥を食って腹をなだめながら、立川の防空壕で幾度かの空襲を耐え忍んでいる。湾岸戦争の頃はテレビニュースから流れるびゅうびゅうという弾薬の音を聞きながら苦しそうに呻いていたが、もしかしたら、幼いころの記憶が蘇っていたのかもしれなかった。

 生物学御研究所の雑草駆除を許さず、山に入ればミミズが地面を横切る様子を夢中になってご覧になり、道端に死んでいるガマを弔い、海に行けばアメフラシを生のまま食され、エビやクラゲの新種を発見するほどの根っからの自然好き、博物学者肌である陛下が、これらを良しとされていたのだろうか。知らされなかったか、何も言えなかったか。事実、ただひとつの聖断を除いて、陛下は生涯何も仰らないことに徹されたのである。新憲法下では「象徴」だったし、旧憲法下でも(僕の父が生まれる昭和10年までは)美濃部達吉の天皇機関説が正当な憲法解釈だったから。昭和53年生まれの僕が記憶するテレビのなかの陛下も「あ、そう」という素っ気ない返事しか口にしなかった。
 その代わり、陛下はいつもモゴモゴと口元だけを動かしていた。その様子が映し出されるたびに「よほど言いたいことが溜まっているんだろう」と母が同情するように言った。俺は神ではないと宣言せねばならなかった陛下には、ミミズやアメフラシくらいしか対等に付き合える友がこの世にいなかったかもしれない。崩御後明らかになった様々な記録からも、言いたいことが何も言えなかった陛下の素顔が垣間見える。行幸先の有力者たちの強すぎる忖度に、遠慮会釈のない万歳三唱の声に、陛下の御心はかき消されたのだった。

* * *

 戦後の新宿・渋谷を謳歌していた両親も、乱脈な都会で子育てなどできないと思ったのか、僕が幼稚園に入園するのに合わせて埼玉県狭山市に引っ越した。僕たちはそこで10年を過ごした。狭山市は父の故郷、入間市の隣にある。もちろん沖縄の深刻さとは比べ物にならないが、少年時代、基地は近くにあった。ゆえに、良くも悪くもそれを当たり前のこととして受け入れてもいた。
 庶民が基地が近くに住むと少々のメリットがある。「ジェット航空機特有の騒音が頻繁に発生することによるテレビ放送の『聴取障害』の緩和に資する」ため、NHKの受信料が半額補助されること。我が家の場合は母の視覚障害が別の半額免除の対象だったので、当時は受信料を払わずに済んだ。
 これは僕とは関係ないが、米軍ジョンソン基地時代に周囲に建てられた通称「米軍ハウス」が市民に良質な住宅を提供していたこと。細野晴臣が住んでいたらしい。それに、航空祭。七夕まつりと並ぶ市民にとっての風物詩だった。このときばかりは騒音も心地よく感じる不思議。
 デメリットは、その日常的な騒音が最大のものである。中学校の校舎は二重窓だったものの、機体が上空を飛んでいるときには教師の声がまったく聞こえなくなるほどだった。自衛隊員を親に持つ仲の良い同級生が転校していったのも悲しかった。
 
 僕が狭山で少年の時を過ごした10年間に、社会科の地図帳はめまぐるしく変わっていった。ベルリンの壁が壊れ、東ドイツと西ドイツはドイツになった。リトアニアが独立し、ラトビアとエストニアが続き、ソビエト連邦は独立国家共同体になった。冷戦が終わった。EUが発足した。今の人間が生きているうちは無理だろうなどと思われていたことが立て続けに起こった。
 いかがわしいビデオ屋だけが軒並み営業していた昭和64年の薄暗い正月を経て、昭和天皇が崩御した。美空ひばりが死んだ。手塚治虫が死んだ。山が動いて55年体制が崩壊した。1994年、村山富市が首相に就任するや声明を発表し、一夜にして自衛隊の違憲議論に終止符が打たれた。自民党と社会党が手を組んだ。ありえないことが立て続けに起きていた。
 世界は日々新たに更新され、新しい時代の新しい枠組みが試され、人類は希望ある未来に確かな足取りで向かおうとしていた。ミレニアムの祝祭の声が、9月11日に、青く澄み渡ったニューヨークの空の下で二棟の高層ビルもろともかき消されるまでは。

* * *

 5月29日。我が国のSNSはブルーインパルス一色に染まった。
 東京に住むようになって長らく忘れていたエンジン音が耳の奥で突然響いた。「医療従事者などに対する経緯や感謝を示すため」という理由は、まるで「太陽が眩しかったから」のように滑稽に映った。あの轟音は、むしろCovid-19の拡大に苦しむ人々の様々な不満の声をかき消すのに適している。からりと乾いた青空にたなびく飛行機雲の心地よさに抗うのも難しい。
 狭山や入間の市民たちが思いがけないブルーインパルスの出現に喜ぶなら、とても良く理解できる。今年は航空祭も諦めなければならないのかと考えていた頃だろうから。だが、先週の今ごろは自衛隊のことなど思い出しもしなかっただろう都内の人々が、日常的な轟音と付き合ったこともないだろう人々が、空を見上げ無邪気に喜びあっているのはいったい何だろうか。平成30年間を経て「ゆるふわ」な表現になったものの、寒空の校庭に土下座していた父たちと何が違うのだろうか。
 
 両者は、表現形こそ違えど、人々の考えを奪うという部分においてまったく共通している。人の考えの自由を奪うものという性質を一にしている。それは昭和天皇その人の尊厳を完全に奪い去った万歳三唱と同じものだ。砂漠に水を撒くような気持ちで強調するが、これは自由と尊厳の問題である。狭山の子として育った手前、僕も航空ショーは好きだ。が、好きという理由だけでは断じて受け取れない。自分の足を運んで仰ぎ見る航空祭のショーしか僕は受け取らない。喜ぶものを与え「さあ喜べ」と言うのは、端的に言って、暴力である。事前に別の喜びを奪われていれば尚更である。父たちを殴りつけていた竹刀が別のものと入れ替わっただけで、構造そのものにまったく変わりはない。殴る蹴るよりも、この構造こそが、暴力を強く定義するのである。

 この30年間で、不戦の誓いを立てたはずの我が国はイラクや南スーダンに兵を送った。「自衛隊を憲法違反という人たちがいる」という言い方で、終止符が打たれていたはずの自衛隊違憲議論が再び蒸し返された。様々な蓄積がかき消され、上書きされた。そうした知見の断絶ゆえか、今日の社会はまるで半世紀前を彷彿とさせるような反共戦線を熱心に構築している。
 だが、今日明日のうちに東京の街が戦火に陥落するようなことは、おそらく無いだろう。戦争は相手のあることだから、相手がいないとなれば戦争にもなりようがない。他国の手を煩わせなくとも、「獅子身中の蟲の、師子の肉を食ふが如し」の喩えどおりに、崩れるときは内側から崩れるのだ。我が国の蟲は全体主義である。右派や左派の類ではない。安倍晋三といった個人名でもない。
 父たちを殴りつけた教師その人ではなく、竹刀を持つ腕を動かしたもの。昭和天皇に遠慮会釈のない万歳をしたその人ではなく、彼をして万歳させたもの。ブルーインパルスを見ていた人たちではなく、彼らに空を見上げさせたもの。ブルーインパルスのクルーたちではなく、彼らを東京の空に飛ばせたもの。東京の空を飛んでくるようクルーたちに指示したその人ではなく、その結論に至らしめたもの。それらは小さな善意、小さな忖度、誰も悪いものとは思いもよらない、むしろ道徳的には良いとされているものの積み重ねだろう。それこそが、最終的に道を誤らせるのだ。

* * *

 悪業を積む者がさらに悪業を積むことがないように、一刻も早くその生命を絶たせてあげたほうが良い。そのように理論立て、殺人を善行と定義した団体があった。彼らは一国のなかに別個の「国」を作り自文化中心主義を満足させていた。その団体が起こしたテロ事件によって平成という時代が始まったことを思い出したい。「自分たちは選ばれている最高の存在である」と彼らは言っていた。現在の我が国はどうだろうか。「日本は凄い、外国人が称賛の声」と言っている我々は、いったい彼らと何が違うだろうか。我々は、平成という時代が終わる間際に、彼らの頸を刎ねたのである。
 結局のところ、我々は社会としてオウム事件を総括しなかった。深い洞察をする個人がいても、それらの洞察が社会として共有されたことはない。社会の総意としては、体よく忘れよう、というわけである。同胞すら「善行」として殺すに躊躇しない我々。半世紀前から犬猿の仲である共産党と公明党も、ともに、特高に殺された大切な人を思い出せるだろう。
 いわんや、である。アメリカでは、とある黒人が無実の罪で警官に殺された。時おなじくして、渋谷で、とあるクルド人が警官に暴行され首に全治一ヶ月の怪我を負った。僕はこれらのニュースを読みながら、ある一篇の詩を思い出していた。自分たちは選ばれている最高の存在であると思いたいがためだけに、人間という存在を蹂躙してきた我々の歴史を思い出させる一篇の詩だ。

辛よ さようなら
金よ さようなら
君らは雨の降る品川駅から乗車する

李よ さようなら
も一人の李よ さようなら
君らは君らの父母の国にかえる(『雨の降る品川駅』中野重治)

* * *

 祖父母は家族で食べる分の小さな畑を庭にこさえていた。戦中はその畑から野菜を盗まれることがたびたびあったそうだ。これ以上盗られたらたまったもんじゃない。夜中に見張っていると、果たして、彼らはやってきた。動く人影をよくよく見ればそれは近所でも知れた軍人の家族だった。「こっちはお国のために戦ってんだ。野菜くらいで何だ!」逃げるでもなく開き直ったという。このように言えば引き下がってくれる前例もあったのだろうが、祖父母とも気性の激しい人だったから、自分の畑が荒られた上に開き直られたのが癪に触る。「この野郎!」と木刀を手に追いかけ回した。父は上気しきった顔で「とっちめてやった」と凄む祖父の姿を記憶していた。

 ものの働きとして、権力は「自分」という存在を持てない。ゆえに権力が「自分」を持とうとしたときには、これを是が非でも斥けなければならない。権力が「自分」を持とうとするときに現れるのが「全体」である。野菜泥棒に「こっちはお国のために戦ってんだ」と言わせたものが「全体」である。ほんとうは自分にとって都合の良い「全体」でも斥けたいところだが、そこまで人間は誘惑に対して強くない。自分にとって都合の悪い「全体」が現れたときでも充分だ。プロテスト―抗議するということをしなければならない。人の自由を奪う「ものの働き」そのものに抗議するのである。

 恐れを知らぬ先祖を持つ者として、僕は、その血筋に、自らの自由意思で従いたい。

 それにしても、軍人の家族は家族で、それこそ亭主がお国のために命を投げ出し働いているというのに、たいして大きくない畑にも盗みに入らなければならないほど腹をすかせていたのだろう。そんな時代のいったい何が美化されているのか、僕にはまったく想像ができない。

2020年5月9日土曜日

南館病棟午後十時

 「生きながら死して、静かに来迎を待つべし」と云々。万事にいろはず、一切を捨離して、孤独独一なるを、死するとはいふなり。生ぜしもひとりなり、死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり、そひはつべき人なき故なり。(一遍上人語録)

 「…2時間ですか。」
 「ええ、今からそちらに向かうとすると、どうしても。」
 「わかりました。では、お見えになると考えても…」
 「急ぎます。が、つまりはそういう状況なんですね?」
 「かなり切迫しています。」
 病院からの電話を切り、急いで身支度を整える。約3ヶ月ぶりに乗る電車は東京のものとは思えないほど閑散としていて、いつもこれくらいならありがたいのに、などと思う。地下鉄、準急、急行と何度も乗り継いで埼玉に向かった。
 父が倒れたのは2月だ。母が言うには、自分ですべての入院支度を整え、自分で救急車を呼んでからそのまま昏睡したという。いかにも父らしい気がする。執刀医によれば6年前に挿入した人工血管が破れていたとのこと。あのときも長い手術だった。今回も8時間に及ぶ手術に耐えた。術後はすぐに意識を回復し、予後も順調で、リハビリさえ始めようとしていたところだった。

 「これがお父様のCTです。」
 小さな部屋に通され、すでに到着していた母とともに主治医からの説明を聞く。医師顔という典型があるかどうかは知らないが、僕の医師の友人に少し似ていた。
 「今日の晩から苦しさを訴えられて…。胃液を吐くことは度々あったんですが、今までは上手く吐けていた。ところが今日は上手く吐くことができなくて、誤嚥性肺炎を起こしてしまった。ほら、ここが白くなっているでしょう。それで、気になるのは白血球の値なんです。普通は炎症を起こすと上がるはずなんですが、お父様の場合、逆に下がっている。これは入院された当初の値。6,000くらいありますね。これが先程の値。1,400くらいしかない。」
 「…あの、つまり、主人は大丈夫なんですか?」
 医師の丁寧さと家族の焦慮とは、残念ながら、しばしば噛み合わない。
 「今日お呼びしたのは、この先の方針についてご家族で話し合って頂きたくて。今日は息子さんを待つことができましたが…」
 いつ何時、それこそ今にも、致命的な状況になるとも限らないわけだ。
 「私どももお父様の命を預かっているわけでして…たとえば人工呼吸器をどうするか、というようなことです。最近はコロナなんかでご存知でしょうけど、もちろん病態はもっと違いますけどね。人工呼吸器というのは太い管を喉に挿して強制的に呼吸させるものですから、辛いんですよ。回復の見込みがあるなら、それこそ息子さんのように若くて元気なら、やるべきだと私もすぐに言えるんですが…。ああ、簡単なパンフレットを用意してありますので、お母様に差し上げましょう。」
 医師の話など耳に入らない母は「とうとうだめかなあ」と独り言ちている。

 コロナ禍の渦中にある昨今、どこの病院も面会を基本的には停止している。無論、父の入院する病院もだ。緊急事態宣言の後は特に、ティッシュや入れ歯洗浄剤を持っていくという場合においても会えるとは限らない。僕としても、もし仮に自分が無症状のキャリアであったなら、とてもではないが責任を持てない。が、この日は面会を勧められた。
 「今は朦朧としてますが、意識はあります。私はご入院されたときからお世話させていただいているんですよ。だからね、お元気なお父様も存じているんですけど…」
 ふわふわとパーマを巻いた看護師が僕たちを案内しながら言った。夜ということもあってほとんどの照明は落とされている。そう言えば、かつては僕もこの病院に骨折で入院したことがあった。おかしなことに母もまったく同じ時期にこの病院に入院したのだった。苦笑していた父を思い出す。あの頃は院内の至るところに灰皿が置いてあったものだが、数年前に建て替えたらしい。暖色系の壁紙に、清潔な匂いがする。

 「西澤さん、ご家族の方がね、ご面会にいらしてくださいましたよ。」
 父はうっすらと目を開け、僕を見て、また閉じた。口を開け、はあはあと息を立てていた。隆々たる筋肉に覆われ、80歳近くになるまで病気らしい病気をしてこなかった頑強な父が、ほとんど骨と皮だけの姿となってベッドに横たわっていた。
 「鼻に挿しているチューブは胃まであります。もうお腹がほとんど動いていないので胃のものを便にして出せないんですよ。食べるのが難しいので点滴しているんですが、もう血管が脆くなってしまっていて。いま挿している腕の静脈が持てば良いんですが。昇圧剤も入れてますが、それでも血圧が100に届かないくらい。体重は37kgです。」
 「37キロ? おいおい、まるで小学生じゃねえか。」
 母が素っ頓狂なことを言う。
 「では私は席を外しますので。何かあったら呼んでください。」
 布団からはだけた父の脛をまじまじと見た。こんなに脛毛が薄い人だったのか、と、40年目の親子関係にして初めての発見をする。脛の肌色に比べて、まだらになった腕の青さがいかにも痛々しい。確かに、何度も何度も点滴を挿したのだろう。母が無言で父の額をさする。歳の割には、父の髪はしっかりしたままだ。
 すると、介護用ミトンに覆われた父の手が宙に浮いて、なにやら円を描きはじめた。一生懸命喋ろうとしているが、声になりそうにない。
 「どうしたの?」と母が訊く。
 「水飲みたいのかね。」
 父は横に首を振った。問題なく聞き取れているらしかった。
 「なに言ってんだか分かんねえだよ。」
 文句を言う母を脇に、父は顔をしかめた。不機嫌なのか、苦しいのか、困り果てているのか、泣きたいのかが判別できない顔をした。僕は不思議と思うところがあった。
 「手袋を外したい?」…父は頷いた。

 父は自分の弱みを見せない人だった。戦争中の教育を受けたからなのか、やたら辛抱強かった。母が僕を身籠ったとき、母とともに酒をピタリとやめた。以来一滴も飲まなかった。父は良き父であろうとした。自分の規範を自分で厳格に決めた。前半生の反省がそうさせたかも知れない。僕も全ては知らないが、いろいろあったらしいから。ただ、その激しい気性を理性で抑え込んでいるのを僕は幼心に分かっていた。父の自分自身への厳しさは、時として、良き息子になる才能のない僕にとって重荷になることもあった。
 僕と父は、家族とはいえ父と息子とでは全く違う人生があるという当たり前の事実に、何度も何度も向き合う必要があった。僕たち親子はその試練にあまり成功しなかったかもしれない。父が黙って耐えるという選択をしたから、必然的に僕も黙らざるを得なかった。父という役割を重んじるあまり、要するに、素直になれなかったのだ。僕は、自分のオペラ『瘋癲老人日記』第2幕の浄吉の台詞に、それを忍ばせた。父には慳貪に扱われる浄吉の想うところを想像し得たから、原作の台詞を拾うだけでは足りない彼の言葉を創作できたのだった。
 
 どうです父さん。少しは良いですか。…まったく強情っぱりで。父さん、少しは颯子を頼れば良いんですよ。僕たち腹を割って話すことのなかった親子じゃないですか。でも、案外、僕は父さんのことを分かってるつもりなんですよ。颯子のことだって分かってます。だから離婚もしないんです。とにかく、颯子にも良く言っておきますから。父さんも颯子のこと気に入ってるんでしょう? なんでもいいから颯子を使ってください。なんでもさせます。妙な方向かもしれないけど、これは一応、親孝行なんですよ。…それじゃあ、おやすみなさい。

 それが、いま、この時に至って、僕は初めて父の弱い姿を見た。良き父であるために息子の前で素直さを隠し通していた姿は、あれはあれでひとつの「素直さ」の発露だったのかもしれない、僕はずっと父を誤解していたかもしれない、と思い直した。確かに言葉は不自由しているかもしれないが、意識もあれば判断もできる人間にとって、両手の自由を奪われるとは耐え難い苦痛だろう。点滴の針を挿されるよりよほど根源的な苦痛である。「良き父」として振る舞うことに生きがいを見出した父は、人生の最晩年に、自らの屈辱的な姿を息子に見せなければならなかったわけである。

 「すみません、ミトンなんですが」
 「ああ、管を抜こうとしちゃうんでね、どうしても…」
 「ええ、分かってます。あの、できるだけ外してあげてくれませんか。夜は仕方ないと思います。理解します。でも、皆さんが起きていらっしゃるときは、できるだけ。それでもしものことがあっても決して責めるようなことはしませんから。お願いします。」
 ふわふわパーマの看護師にお願いし、ミトンを外してもらった。その瞬間に、父はいつもの顔に戻った。確かにもう話せないし、いろいろと自由は利かないままだが、あれやこれやと指先で指示する父には、いつも通りの父を感じた。鼻に刺さった管が邪魔だ、水が飲めないから喉が渇くと手が雄弁に語りはじめた。
 「看護師さんに無理をお願いしたんだから、頼むよ。それじゃあ僕は帰るから。」
 「……。」
 「なに?」
 「……。」
 ゆっくりと動く父の口元を注意深く読み取った。
 「『コロナ?』」
 父は頷いた。
 「コロナに気をつけろ、ということ?」
 父は再び頷いた。
 「ものすごく気をつけてます。家からも出ていないから、心配しないで。」
 父は握手を求めてきた。父の手は冷たかった。

 「あたしはぶっきらぼうだからさ。」
 「知ってる。」
 「お医者さんに色々言ったけど、本当はもうお父さんに触って欲しくないんだよ。」
 「分かってる。」
 「そう、分かってるの。まあ、とにかく気をつけて頂戴。」
 「気をつけてます。そっちこそ気をつけて。」
 母を見送り終電に乗る。すると、またすぐ病院から電話が掛かってきた。すぐさま僕が決断しなければならないことがまだまだいろいろとあるようだった。本人の意志が今も強くあるにも関わらず、僕が決めて本当に良いものだろうか。それは分からない。本当は父の命に責任など持てるはずがない。が、僕が決めない限りは医師たちが動けない。ほとんどそれだけのために、僕はいくつもの決断しなければならないようだった。
 いま、父の命は最晩年を生きている。
 僕は、生まれたばかりの僕を抱いた父の年齢になった。